浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き6月時の鐘通りから

6月19日(土)



今日も昨日のつづき。



『講座』の三回目、
日本橋界隈。





より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き6月 を表示


江戸の頃の時の鐘があり、牢屋敷の跡でもある、
小伝馬町の十思公園から歩き始め、昭和通り
神田八丁堀の跡まできた。


十中八九、雨だと思っていたが、
思いがけず、よい天気になり、逆に、暑い。
歩き始めて、たいして経っていないが、
汗だく、の、町歩きとなった。


昭和通りを渡って、左に向かうと、
うなぎやの大江戸
ここも老舗。
寛政年間の創業、と、いう。
(これが本当であれば、浅草田原町のやっこと同年代で、
江戸東京でも最も古いうなぎや、の一つ、
ということになる。)


この大江戸、土曜日はいかだ、の、サービスの日。
表に看板が出ている。


この店の脇の路地、を、入る。


この路地が、実際に、時の鐘があった路地なので
時の鐘通り、と、呼ばれている。


大江戸の調理場の前は、蒲焼のいい匂いがしている。


真っ直ぐにいくと、中央通りに出る。
その、少し手前が、時の鐘のあった場所。


中央通りに出る。
神田駅側、二つ先の信号が、今川橋の交差点。
今川橋は、神田八丁堀の橋。
この今川橋は、あんこの入った、今川焼
由来になっている。この橋の袂で、今の今川焼
売り始めたので、こう呼ばれるようになった、
と、いう。


中央通りを左。
江戸通りの交差点。
この脇に、総武線快速新日本橋駅の入り口がある。
ここに長崎屋跡、という案内版が設置されている。


これは、江戸の頃、長崎屋源右衛門という薬種問屋のこと。
長崎出島のオランダ商館長(カピタン)が定期的に
江戸へ参府する際の定宿でもあった。近くに石町の鐘があったため、
「石町の鐘はオランダまで聞こえ」という川柳もある。


江戸で唯一の外国への窓として、
蘭学などを学ぶ者にとっては大切な場所であったようである。


江戸通りを渡り、日本橋方向へ。
一本目の路地を左に入る。


この界隈、日本橋本町三丁目。
古くは薬種店(やくしゅだな)と呼ばれ、江戸の頃から、
薬の問屋が軒を連ねていた。今も、第一三共、アステラスといった、
国内大手の製薬会社の本社もある。


寄席のお江戸日本橋亭があり、路地を回る。
このあたり、伊勢(町)堀、という入り堀があったところ。
今は、町割りにすらその痕跡は、わからない。


もう一度、中央通りの方に、戻ってくる。
ちょうど、マンダリンオリエンタルの前になるところ。
今は、こちら側も大きなビルが建てられているが、
以前には、ここに路地があり、浮世小路、と、呼ばれていた。


落語ファンの方であれば、思い出されようか。
百川(ももかわ)という噺。
百川というのは、実際にここ、日本橋浮世小路にあった料理茶屋の
名前。(噺は百川が舞台になっている。)


百川は山谷八百善と並んで、江戸随一の料理屋であった。
なんでも、ペリー来航の折には、八百善とともに
彼らへの饗応料理を仰せつかったという。


中央通りを渡り、マンダリンオリエンタル、
三井タワーへ。ここで、15分のトイレ休憩。


私も、一休み。
まったくもって、暑い。
夏物とはいえ、着物を着ており、そうとうに暑いのだが、
皆さんもむろん暑い、で、あろう。


真夏になれば、もっとたいへんなことになる。
考えた方がよいかもしれない。


さて。


このマンダリンオリエンタルと三井タワー。
これは5年前、`05年に三井の日本橋再開発の目玉としてできた。
隣の三井本館の重厚なデザインに合わせたデザイン。


マンダリンオリエンタルはご存知、香港本拠の
高級ホテルチェーンだが、世界初の6つ星ホテル。


そして、この一階には、日本橋千疋屋もある。
今、千疋屋はここ日本橋と京橋、銀座にもあるが、
ここ日本橋千疋屋が、総本家で、京橋と銀座は暖簾分け。


さて。


15分終了。


またまた、歩き始める。
三井タワーの裏へ。


ここは、ご存知の日本銀行
石造りの重厚なものだが、明治28年竣工の重要文化財
その前は、金座。
江戸の頃、小判など金貨の鋳造をしていた役所、であった。


多少時間もありそうなので、日本銀行の回りを回って、
外濠通りへ。(この、日本銀行、三井本館、三越との
間の路地は、江戸桜通りという。)


旧常盤橋、常盤橋御門跡も見る。
(このあたりの話は先日書いている。)


再び、江戸桜通りに戻り、三井本館、三越の間を通り、
中央通りへ。


三井本館・三越のこと。


越後屋三井銀行三井物産
三井八郎右衛門高利は、1673年(延宝元年)伊勢・松坂から出てきて、
本町1丁目に「越後屋」という呉服店を開店。
これは、現在の日本銀行の新館辺り。
高利は「現銀(金)掛け値なし」という新商法を掲げ、
呉服の価格を下げ、また、呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆し、
切り売りをして庶民の人気を集めた。
その後、駿河町に移り呉服商に加え、両替商、幕府の御用金為替方、
諸大名への金融も始め、三井銀行の基となる。
明治になり、呉服店三越百貨店、両替店は三井組から、
三井銀行三井物産へ。その後、ご存知の三井財閥
三井グループに至っている。(三井物産は現在は大手町に。)


・三井本館
関東大震災により旧本館倒壊後、1929年(昭和4年)竣工、重要文化財
イタリア・ベネチア産大理石などを使用するなど
新古典主義建築の堂々たる構え。


(これは、皆さんにお渡しした資料のままの抜粋で
恐縮、ではある。)


と、いう説明をすると、質問がきた。
三井は、出身は伊勢松坂なのに、なぜ、越後屋、なのか?


あ〜。
確かに、これ、素朴な疑問、で、ある。


なんだっけ、、、?
どっかで見たような、、。


と、この時は、お答えできなかったのだが、
改めて、ここで回答させていただく。


三井家の先祖は、なんでも近江の六角氏に仕えていた武士で、
そのなん代目かの“越後守”高安の頃、
六角氏は織田信長に滅ぼされた。
これによって三井家も伊勢に逃れ、松坂でその子の高俊が
酒、味噌、醤油を扱う店を開いた。
この越後守高安から、越後殿の酒屋と呼ばれたという。


ここから、越後屋、という名前が生まれている、という。
三井広報委員会ページから )




だいぶ長くなった。


つづきは、また明日。