
12月14日(日)夜
寒くなってきたので、ふぐ。
になっている。
ちょうど、一年ぶり。
浅草というところには、東京でもふぐやが多いところである。
元来、江戸・東京でふぐを食う習慣はなかったと
思われる。かくゆう私も子供の頃から食べていた
わけではない。東京で育った方はご同様であろう。
まあ、子供の食うものではなかろうが。
なぜ、食べなかったかといえば、単純にふぐで最もうまい
とらふぐが江戸・東京湾であまり獲れなかった、から、か。
また、もちろん毒があるのはわかっており、獲れてもあえて
食べはしなかった。毒を分けてさばく技術も関西から
伝わらなかったのかもしれぬ。
調べると、とらふぐは北海道を含め、日本の沿岸各地に
生息はしているよう。ただやはり、数が多いのは西日本。
しかし、近年の温暖化で、東京湾や福島沖でも獲れる
ようになり注目されているらしい。
江戸期には真偽は定かではないが、武家では、危ないので
ふぐを食べることは禁止されていた、などと落語では
語られる。また、同様に落語では、あたるので、安く、
庶民で食べる者もあったと。(落語「らくだ」など)。
料理法が一般には確立されていたとはいえなかったので
あろう。
今は、ご存知の通り科学的に解明され、ふぐ調理師免許
というのが設けられ、厳重に管理されたもとで調理されている。
この免許の第一号はどこかご存知であろうか。
山口県下関の[春帆楼]という一軒の料理やであったと。
https://www.shunpanro.com/
もちろん、下関はふぐで今も有名ではある。
ここは明治28年(1895年)に行われた日清戦争後の伊藤博文と
清国李鴻章で行われた、下関講和会議が行われた場所でもある。
ご存知の通り伊藤博文は長州の出身で[春帆楼]は旧知の場所で
あったよう。
伊藤博文はそれ以前から無類のふぐ好きであったらしく、
彼の後押しで[春帆楼]が公許第一号になったという。
これは講和会議より前の明治21年(1888年)のこと。
(まあ、伊藤博文をはじめ、実際に食べたい人は、食べていた、
ということである。)
ただ、全国的に制度としてふぐ調理師免許が設けられるのは
ずっと後の戦後のことのよう。
18時の予約。
タクシーで向かう。
場所は、吉原も至近の千束通り。
そう大きな店ではない。
入って名乗ると、お二階です、とのこと。
いつも一階の奥の座敷であったが、珍しい。
階段をあがって奥の座敷。
予約時に、焼きとらふぐコース11,000円也(税込)を
頼んでおいた。
もちろん、ふぐといえば、鍋、だが、どうも
焼いた方がうまいと思うようになった。
寒いが、ビールをもらって、
煮凝りとふぐのさつま揚げ、とのこと。
ここはなん回かきているが、ふぐのさつま揚げは
初めてではなかろうか。
右側は出汁巻き玉子。
次は、これ。
むろん、ふぐ刺し。
とらふぐ、というのはおもしろい魚であろう。
白身だが、かなりコリコリした食感。
これが命であろう。他の白身で似たようなものは、
あるのだろうか。唯一無二ではなかろうか。
そして、やはり、なんともいえないうまみがある。
そして、ぽん酢しょうゆ。
ここは自家製で、橙の酢とのこと。
柑橘類のジュースを寝かして作ると聞く。
いろんな種類があるのであろうが、まあ、私なんぞには
違いはわからぬが。
そして、ふぐのから揚げ。
これもまた、ふぐの料理としては、なくては
ならなかろう。
しこしことした食感がたまらぬ。
私は、ビールから寒いのでヒレ酒へ。
ファイヤーパフォーマンス(?)。
ふぐの香ばしいうまみの出た、燗酒。
うまいもんである。
お姐さんが売り込みにきた、焼き白子。
これも、また、3,300円也でお安くはないが、
堪えられぬうまさ。
鱈だったり、他の白子ではあまりやらぬが、
なぜであろうか。ふぐだけのものか。
そして、焼ふぐ。
昆布〆もされ、多少、塩もされている。
右側、時間がかかる骨付きの部分からお姐さんが
コンロの焼き台にのせてくれる。
骨付きは、しっかり焼くと骨から取れやすくなる。
スライスはすぐに焼ける。
やはり、焼いてもまた他の白身では、あまりない
コリっとした食感とうまみ。
食べ終わると、鍋でなくとも雑炊が出る。
ふぐ鍋でも最後の雑炊が人気だが、ちゃんと
ふぐ出汁の出た雑炊はやはり、うまい。
デザート。
以上、うまかった。
ご馳走様でした。
台東区浅草5-9-7
03-3875-1779
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