
引き続き、スペイン。
マドリッド。
ミシュランピブグルマン[Gala]ガラ。
コーヒーまで終わって
会計。
書かれたメニューと料理が違っていたり、てきとうに
ぬけているのも、逆に親しみが持てた。
むろん、サービスがてきとうということではない。
とてもジェントルではあった。
そして、味はもちろん、うまかった。
このくらいが私には合っているのかもしれぬ。
出る。
出ると、来た時とは打って変わって、街、店々
かなりにぎわっている。
もう、時刻は、例によって12時近いが。
やはり、遅いのである。
よい気候なので、ドアや窓を開けているので、
中がよく見える。
比較的若い人が多そうで、明るく、お洒落な
スポーツバーといった感じの店が多そう。
だが、だからといって、皆、品はよさそうで、いわゆる
あぶない盛り場という感じではない。
ここ、Rios Rosas、リオス・ロサスという街、
そこそこ高級な集合住宅のある街で、領事館が
あったり、そう遠くないところに日本大使館もある。
やはり、オハイソでお洒落な街であった。
治安もよさそう。
ちょっと余談だが、泊っているアトーチャヒルトンのある
あたりは、隣が、ナイトクラブ(ディスコ)だったりやはり
ちょっと物騒な感じもあった。
深夜、タバコを吸いに外に出ると、パトカーがきており、
なにか店で暴れたのか、わるさをしたのか、若い男数人が
店の人に警官に突き出されていた。
見た感じ、無頼の者、ヤカラの類ではなく、身なりも
きれいで酔っ払った若者の悪ふざけのようではあったが。
バルセロナの夜の街でもこの手の若者は随分見かけた。
[Gala]からは往路同様地下鉄で帰ってきた。
まあ、特に危ないことはなかったが、これも気を
付けなければいけないことであったか。
さて。
翌日。スペイン最後の日。
内儀(かみ)さんの立てた予定は、すぐそばの
ソフィア王妃芸術センター、Museo Nacional Centro de
Arte Reina Sofiaで、絵を見る、と。
ここは国立の美術館。
ちなみに、ソフィア王妃というのは、現国王フェリペ6世の母。
ここには、かのピカソのゲルニカがある。
これはスペイン、マドリッドにきたのなら、
観ておくべき、と。
まあ、これに、反対はできなかろう。
目と鼻の先だし。
マドリッドには、プラド美術館という大きなものもある。
ここは、元々のスペイン王室のコレクション、中世からの
スペイン絵画及び、イタリア、オランダなど欧州絵画を多数
所蔵している。が、まあ、これはよいだろう。
最近とみに思うのだが、やはり根気もなくなってきており、
集中力を発揮して鑑賞し続けられなくなっている。
王宮も然りであった。
また、絵画というものに本来的にあまり
興味が多くはないということ。
だがまあ、常識として知っておかなければ、という
程度の意識はある。まあ、その程度、なのだが。
で、午前。
ソフィア王妃芸術センターの前にアトーチャ駅前
にあって、気になっていた、国立人類学博物館へ
行ってみる。
妙なアングルだが、これ、玄関。
一通り、観た。
世界中、主として旧植民地の民族資料が展示されている。
ただちょっと偏りがあって、フィリピンが厚い。
フィリピンがスペインの植民地というのは、歴史的
事実として知ってはいるが、実感としてはアメリカの
方が存在感が強い。
フィリピンが米領になったのは1898年(明治31年)の
米西戦争後。1565年(永禄8年)からなので、それ以前の
スペイン領の時代の方が圧倒的に長い。
だが、スペインといえば、どうしたって、南北米大陸
であろう。アステカ、マヤ、インカ、etc.。
まあ、文化の破壊と金銀の収奪。
これで、スペイン本国は黄金時代を築いたのだが。
ともあれ、現代において南北アメリカの先住民族文化について
どう見せているのか、みたかったのである。
あとで調べると。南北アメリカについては、Museo de
America、アメリカ博物館という専門のものが別に
あったよう。(それは、そうであろう。彼らの責任と
して。)
で、ここからソフィア王妃芸術センターへ。
ここは「18世紀にカルロス3世が、イタリアの建築家
フランチェスコ・サバティーニに命じて設計させた病院を
改築したもの」に美術館用に新館が増築されている。
(ウィキ)
なるほど、入ると、古いものなので石造りの建築で
部屋が細かく分かれていて、ちょっと病院らしい
雰囲気もある。
展示されているものは、ピカソ、ダリ、ミロなど
近現代のスペイン人アーティストの作品が中心。
そういえば、ピカソの代表作って、なんであろう。
AI君に聞くと、「ゲルニカ」「アヴィニョンの娘たち」
「泣く女」が出てくるが、どれもあまりピンとこない。
例えば、ムンクの「叫び」のように、誰でも思い浮かべ
られるようなものではなかろう。
パブロ・ピカソは、1881年(明治14年)生まれ、1973年
(昭和48年)91歳で死去。20代から認められていたようで、
製作期間はかなり長い。作品数も多いということ
なのであろう。
ゲルニカについては、バスク地方のことろでも触れたが、
1937年、スペイン内戦時代、共和国軍vsフランコ率いる
反乱軍の戦いで、フランコに味方するドイツ軍が、
ゲルニカ市に無差別爆撃をした、という事件。
この爆撃を白黒の抽象画で描いた大作。
もちろん、意図は、この虐殺に対する批判、糾弾で
あったのであろう。
349.3cm×776.6cm、なるほど、目の当たりにすると
かなりでかい。なるほど、こういうものか。
絵自体は、画像としてなん度も見て知っていたので、
特段の感慨はなかったのだが。(私のこういうところが、
絵画鑑賞ができない理由なのであろう。)
つづく
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