浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



歌舞伎座 八代目 尾上菊五郎襲名披露 團菊祭五月大歌舞伎 その5

4773号

引き続き、歌舞伎座の八代目菊五郎襲名披露興行。

「弁天娘女男白波(べんてんむすめめおのしらなみ)」の
松屋見世先の場であった。

ご存知のように、女装をして武家のお姫様に扮した
弁天小僧が、強請に掛け、正体がばれかかると、開き直って
正体を現し、なに?、俺のことを知らねえ、
「知らざぁいって、聞かせやしょう」。

ここで、観客の、まってましたぁ~~~~、の声。
お馴染みの名台詞。


浜の真砂と 五右衛門が 歌に残せし 盗人の
種は尽きねぇ 七里ヶ浜・・・

中略

ここやかしこの 寺島で 小耳に聞いた 祖父(じい)さんの
似ぬ声色で 小ゆすりかたり 名せぇ由縁の 弁天小僧
菊之助たぁ 俺がことだ

オトワヤ~~~~!

この終わりの部分。
「寺島」というのは、五代菊五郎の家があり、本名(姓)
でもある向島の寺島村。(八代目の姉、寺島しのぶ
寺島である。)

そもそも、弁天小僧菊之助は、音羽屋の菊之助
ちなんでいるが、この部分の「祖父さん」は初演時は
三代目菊五郎のことになる。
ただ、今回の八代目は、祖父さんだと梅幸になり、父が
菊五郎なので、「とっつあん」に言い換えている。ちなみに
七代目は祖父も菊五郎なので、そのまま「祖父さん」。

菊五郎菊之助音羽屋の親類以外が弁天を演じることもあり、
その場合は、ここは「音羽屋の」と言い換える。

まあ、取りも直さず、菊五郎菊之助音羽屋の芝居
なのである。ただ、市川宗家成田屋歌舞伎十八番のように、
音羽屋はこの芝居を独占していない。この違いがおもしろい。

ここで、襲名という機会なので、歴代の尾上菊五郎というのを
みてみたい。

初代は享保15年(1730年)京都で初舞台という。
人気役者となりこの人が、江戸へ下ったよう。
二代目は初代の子息だが、襲名後2年で急死。

三代目が偉大。菊五郎の名を江戸を代表する大看板にした人。
歌舞伎の家とは無関係な職人の家から、初代菊五郎の弟子
初代松緑の養子となり、修行。美形でもあったといい、
人気になり、松助梅幸と文字通り名を挙げ、文化12年
(1815年)に三代目尾上菊五郎を襲名している。
化政期の名優である。作者の時代的には「東海道四谷怪談」の
四代目鶴屋南北の頃。
当時の江戸歌舞伎の型を整理したといい「仮名手本忠臣蔵」の
「六段目」の早野勘平の今の形は三代目菊五郎のものという。
また、おもしろいのは、この人、人気絶頂の30代半ばで
隠居していること。
植木(盆栽)が好きで、向島(寺島村)に家を買って、
ここで植木屋「松の隠居」と名乗っていたのは知られていた
ことのよう。(先に書いた、菊五郎家の本名の寺島は、
ここから始まっている。)
30代で隠居というのは、現代的に考えると、いかにも
早いようだが、当時は意外にこういう人はあったよう。
そういえば、京都だが、超絶技巧で近年大人気の江戸期の画家、
伊藤若冲は、家は錦市場の八百屋で、40才で弟に家を譲り隠居、
絵描きとして生きることにし、あれだけの作品群を残している。
一度名を成して、早く隠居し趣味に暮らす。よいではないか。
ただ、三代目、幕末近い嘉永元年(1848年)に、大川橋蔵
名前で舞台に戻っている。意外にこれも趣味かもしれぬ。
自由人か。

次の四代目は大坂の生まれ。三代目が上方へ乗り込んだ際に
娘婿となり、安政2年(1855年)に菊五郎を襲名している。
女形だが、江戸での人気はもう一つであったよう。

そして、五代目。この人がまた傑物といってよいだろう。

天保15年(1844年)生まれ、明治36年1903年)没。
江戸期末から、明治を生きた名優。
明治の團菊左時代を作った人、その他、この人にかかる
形容詞は数知れない。
この人は、歌舞伎の家、十二代目市村羽左衛門が父で、
幼年で十三代羽左衛門を襲名、市村座の座元(劇場の経営側)
でもあった。ただ、お母さんが三代目菊五郎の次女で、四代目に
子がなく、市村座は弟に譲り菊五郎を襲名することになった。

今回の「青砥稿花紅彩画」も黙阿弥とのタッグで産まれている
わけである。
「髪結新三」だったり、当たり役はたくさんあるのだが、
私は五代目菊五郎といえば「天衣紛上野初花(くもにまごう
うえののはつはな)」通称、河内山と直侍、を挙げたい。
初演は明治14年1881年)東京、新富座。河内山を九代目團十郎
直侍を五代目菊五郎
今でも人気でよく上演されるし、私もなん回か観ている上、
DVDも持っている。

特に、通称そばやと言われている幕を観てほしい。
明治になって、五代目は黙阿弥と二人で、ここに
江戸っ子の粋、美学を詰め込んだ。
名もない場末のそばやで、江戸の男がどう振舞えばよいか。
まあ、どうでもよいといえば、どうでもよいのことだが、
これが江戸・東京人なのである。

以前に細かく書いているので詳細はご参照願いたい。

江戸世話物(町人の話)を得意とする音羽屋の芸は
この人に集約されているのであろう。

そして、六代目。六代目は五代目の長男。(五代目の正妻
には子がなく、柳橋の芸者との子供という。)明治18年
(1885年)生まれ、活躍したのは、大正~昭和初期。
亡くなったのは昭和24年(1949年)。

松竹の歌舞伎座の向こうを張って、江戸から唯一残った
二長町の市村座に初代吉右衛門と籠り「菊吉時代」「二長町
時代」とも呼ばれる一時代を築いた。
どちらかといえば、モダンな人だったようで、舞踊もの
を得意とし、今月昼演じられている「京鹿子娘道成寺
などが代表演目のよう。しかし、当たり役と呼ばれるものは
かなり多く、五代目の手がけた世話物もそつなく
こなしていたよう。

七代目に行く前に、七代目の実父である七代目梅幸についても
みておいた方がよいだろう。大正4年(1915年)~平成7年
(1995年)。女形。(ちょっと複雑なのだが、七代目梅幸
六代目菊五郎の養子で、赤坂の料亭を経営していた女性の子。
実際の父が五代菊五郎ともいわれているよう。しかし、真相は謎。
もし本当ならば七代目菊五郎は五代目のひ孫ではなく孫になる。
時代も時代であろうが、五代目はやはり傑物だった?。)

六代目菊五郎の薫陶と後ろ盾を受けて成長、立女形人間国宝
にまで昇り詰めた人。
と、いうこで大所の芝居の主人公格の女形はすべてといって
よいほど務めていた。
またやはり舞踊も得意とし「京鹿子娘道成寺」は、七代梅幸
七代目菊五郎、現八代目菊五郎の親子孫三代で演じている。
(今月昼では、玉三郎、新菊五郎、新菊之助の三人で
これを演じている。)

 

つづく

 

國定 文久3年(1863年)似顔大全 早野勘平 三代目尾上菊五郎
おかる 四代目尾上菊五郎 重の井 尾上菊次郎

 

 

 

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