浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



東京おでん・・考察

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3950号

前号で、しょうゆ味の「東京おでん」を書いた。

ここで、
「おでんは、豆腐などを焼いて味噌をつけて食べる
田楽が元であるが、これが明治になって、しょうゆで
煮込むおでんが主流になった。
生まれたのは、東京。
東京の煮ものなので、濃口しょうゆで、
真っ黒に煮込んだもの。」 (紀文)と書いた。

この紀文のページについてのこと。

ちと細かい話になるが、この件。
煮込んだしょうゆ味のおでんの誕生がいつなのかという話。
とても気になっている。以前にも書いているが、
今日はこれをもう少し踏み込んで考えてみたい。

現代のおでんの元が生まれたのがいつなのか。
まさに大問題だと思うのである。まさに大転換。

紀文のページでも書かれているが、野田や銚子で
濃口しょうゆが生まれ、江戸後期に生まれた、と
言われることが多かった。

が、これは、まず違っているという、
千葉大名誉教授故松下幸子氏の説を紹介している。

「調味した汁で煮込む『煮込みおでん』。(中略)
おでんに関する資料を精査する限り、江戸時代に
このスタイルの煮込みおでんがあったとする確証は
得られない」と。

いくつかの例を紹介している。

「四千両小判梅葉」という芝居のこと。
この芝居は、明治18年(1885年)、東京千歳座初演。
作者はあの、河竹黙阿弥先生である。

私は観たことはないが、今も上演されることもある演目のよう。
黙阿弥先生お得意の泥棒を扱ったいわゆる“白波もの”。
1855年安政2年)江戸城の金蔵から四千両を奪って捕まり、
処刑された二人の男があったのだが、この実話がモデル。
「ここは地獄の一丁目」というフレーズがあるが、この芝居が
元らしい。

ともあれ、ここに「おでん燗酒」と看板を出した、振り売りの
屋台のおでんやが登場する。
これが、煮込みのしょうゆ味ではなく、味噌味。

芝居中の『呼び声「おでん燗酒、甘いと辛い」の「甘いと辛い」
は、選べるみそだれ2種のこと。』(前記「紀文ページ」松下氏)
という。

また、幕末の「守貞謾稿」には同様の振り売りの味噌のおでん
しか書かれていない。
「守貞謾稿」というのは江戸後期から幕末の風俗史の基本文献
として知られている。慶応3年(1868年)頃が最後の
加筆といわれている。
この最後の加筆検討の対象に、おでんが含まれている
かどうかは定かではないということも頭に置く必要もある。
ただ「守貞謾稿」にしょうゆ味のおでんはないという事実は
大きい。幕末、ぎりぎりまでまで、しょうゆ味のおでんは一般化
していなかった可能性は高いようにも思われる。

一方、歌舞伎「四千両小判梅葉」についてである。
初演が明治18年だからといってその時点でしょうゆ味は
なかったとは、必ずしもいえない。物語は江戸であり
作者黙阿弥は事件の起きた安政当時40代前半でむろん知っている
わけだし、その頃のおでんやを再現したと考えるのが
自然であろう。ただ幕末の安政当時まだ味噌味の田楽おでんが
一般的であった裏付けには十分なっていると言えそう。

そして、紀文ページでは、本郷[呑喜]という
おでんやを紹介している。ここは、実のところ、私は
行ったことはないが、最近まであり、2016年惜しくも
閉店してしまっているよう。

[呑喜]は「汁気タップリに煮込んで」おでんを始めた、と
書かれている。ここは明治20年(1887年)創業。
おそらく[呑喜]からのヒアリングなのであろう。
ただ、つゆは多いがしょうゆ味の元祖、とは書いては
いない。
つゆが増えたことよりも、味噌からしょうゆ味への
転換の方が、大問題である。

今も残っている[呑喜]のおでんの写真、

を見る限り、なるほどしょうゆ味のつゆ。
ただ取った皿には、飲めるほどのつゆはない。
それだけ濃いことが想像できる。
濃さは、前号で書いた[お多幸]と変わらないのかも
しれない。鍋にはつゆは多いが、皿は“つゆだく”という
ほどでもないとも見える。(もちろん創業時と同じ保障は
どこにもないが。)

先の松下先生及び、紀文は、明確には書いていないが、
明治20年開店の本郷[呑喜]が“つゆだく”だけでなく、
しょうゆ味おでんの元祖なのではと、匂わせているように
読める。だが、つゆだく=しょうゆ味でよいのだろうか、
という疑問である。

一方、ちょっと混乱するが“煮込みのおでん”という
言葉がある。
これは、必ずしも、しょうゆ味の煮込みを指していた
わけではないと松下先生は指摘している。
私は、これに対して、裏付ける史資料を知らない。
あるいは、そうなのかもしれない。
湯に浸したこんにゃくに甘い白味噌を塗って喰う、
味噌おでんというのが私の子供の頃にも、観光地の
茶店などにまだあった。この湯に浸したものを“煮込み”
と呼んだと。

“煮込み”という言葉は、円生師の落語「お若伊之助」に
出てくる。

鳶頭(かしら)が、剣術の先生に呼び出されて、取次の
弟子の者に

「あっしは、に組の初五郎てぇ頭取で、先生からの
お使いで取るもんも取りあえず飛んでめェりやした」

と名乗る。
これを取次はおでんやと間違え、

「先生。おでんやが参りまして、煮込みのおはつを
差し上げたい。とろろもございます、と。」

とんちんかんな口上を先生に伝えるという、お決まりの場面。
「に組→煮込み」「初五郎→おはつ」「取るもんも
取りあえず→とろろ」の間違いである。

これは“煮込みのおでん”でよいと思うが、
おはつ、がなんなのか、わからない。
また、とろろ(昆布?芋?)を、おでんで食べたのかも、謎。
そしてこれは振り売りのおでんやで、味噌でもしょうゆでも、
どちらも成立する。

ともあれ、謎のまま。

この噺、円朝作とも言い、円生師なので、舞台は江戸だが、
この部分も含めて成立は明治以降と考えてよいと思う。
だだ“煮込みのおでん”という言葉は確かにあって、
これは、煮込みでない焼いたおでんに対して使われた
言葉で明治以降にも使われていた証左にはなろう。

さてさて。
今回は、考えてみたのだが、結論はない。
つまり、しょうゆ味のおでんがいつできたのか、依然不明。

おそらく、江戸末ぎりぎりまで、なかったというのは、
ある程度確からしいといってよさそう。
が、本郷[呑喜]がつゆ多めのおでんだけではなく、
しょうゆ味のおでんの元祖、との説は、検証が
足りていない。以前かもしれない。

そうすると、明治20年以前、幕末の数年も含めて
よいと思うが、明治0年台~10年台の20数年の間、
東京のどこかで、つゆは[呑喜]よりもさらに少なく
しょうゆ味のおでんが生まれていたのではないか、とも。

あるいは[呑喜]しょうゆ味元祖説でも、味噌から
しょうゆへの大転換である、話題になっていたのでは
なかろうか。裏付けができるかもしれぬ。
よし、また、この時期の新聞記事でも探してみるか。

 

 

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