11月24日(日)第二食
さて、日曜日。
ご近所、三筋の天ぷら[みやこし]。
しばらく、ご無沙汰であったかもしれない。
私の住む台東区元浅草付近には、考えてみれば、
天ぷらやが、多い、のではなかろうか。
上野と浅草の間だが、盛り場ではない。やはり下町という
場所柄、かもしれない。
[みやこし]以外では、蔵前[いせや]
元浅草二丁目に[天三]。
どちらも歩いて、5分程度だと思う。
[いせや]、[天三]ともに目の前で揚げたてを
出してくれるところではなく、伝統的な江戸前の
どちらかといえば、甘辛の天丼がメインのところ
ではあるが。
このところは[みやこし]ではなく[いせや]に
行っていたのではあった。
[みやこし]と[いせや][天三]とは広い意味では
同じ天ぷらやではあるが、今書いたように、多少違っている。
元来、天ぷらは、江戸期の江戸で一般化したといって
よいであろう。にぎり鮨同様、屋台でもあった。
落語「道具屋」にもエピソードとして出てくるが
にぎりずし同様に、目の前であれを揚げて、これを揚げて
と頼んで食べる形式もあったと思われる。
東京の天ぷらは、明治期、かき揚げを売りにするところが
現れ、大きなものを競って出すような、ブームともいえる
ような時期があった。
今に残るところだと浅草[中清]、銀座[天國]あたりが
代表的か。[中清]には今も大きな「雷揚げ」という
かき揚げがある。
[みやこし]の親方は湯島の[天庄]の出身。
[天庄]は明治42年の創業。
[みやこし]もそうだが、現代の一つずつ目の前で揚げて出す
形式が出てきたのは関東大震災後、昭和初期からと考えて
よいのではないかと思っている。
今は丸ビルに入っている[天正(てんまさ)]のお座敷天ぷら。
[天正]は神田小川町で昭和11年創業という。お客の前で
一品ずつ天ぷら職人が揚げて出す形式のかなり初期のものと
いってよいのであろう。ここが元祖なのかどうかは、別にして。
湯島の[天庄]などそれ以前からの天ぷらやの中でも
目の前で揚げる形式を取り入れていったところがあった、
ということか。
東京の天ぷらは、それ以前のものと、ある程度高級な天ぷら
として目の前で揚げる形式に分かれ、後者は茅場町[みかわ]など
技術の研鑽があり、お塩でどうぞ的な、新しい東京天ぷらとして
戦後、発展してきたのであろう。
いずれにしても、東京の天ぷら史、一度、きちんと考証を
しなくてはいけない。
さて。[みやこし]であった。
夕方、5時半開店で、少し前にTELを入れて、予約。
春日通りを越えて、歩いて5分ほど。
入ると、口開け。入口前のカウンターに掛ける。
特の天ぷら定食5,500円也を頼む。
海老二本。
さいまき海老(小さめの車海老)。
これは、塩。
頭も出る。もちろん、これも塩。
次は、いか。
いうまでもなく、すみいか。これも塩。
すみいかは江戸前いかの定番。にぎりの鮨もよいが、
天ぷらで、半生に揚げたものは格別。
きす。
ここから天つゆ。
はぜ。
はぜは、この時期は大きくなり、旬といってよいのだろう。
穴子。
ホクホク。まさに堪えられない。
野菜天。
手前左、アスパラ。上左、蓮根。上右、椎茸。
右下、小玉ねぎ。
どれも、うまいが、特に、あまい小玉ねぎが私は好きである。
蔵前[いせや]の先代親方などは、江戸前天ぷらは、昔は
魚だけで、野菜なんか揚げなかったと言っていた。
野菜天だけ最後にまとめて出すのは、その名残、なのかも
しれない。
最後は、小柱かき揚げとご飯だが、天丼、茶漬けの天茶も
選べる。私はいつもの通り、天丼。
味噌汁は蜆。
お新香もうまい。
ご馳走様でした。
腹一杯。
勘定をして、出る。
もう少しすると、白魚も出てくるか。
その昔、冬に入って、隅田川河口の文字通り江戸前で篝火を焚いて
獲っていた白魚。
もちろん、もう既にいなくなって久しいが、季節の風物詩。
たのしみにまたこよう。
台東区三筋2-5-10 宮腰ビル1F
03-3864-7374