浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

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須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」~断腸亭考察 その31

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このシリーズもそろそろ終盤が見えてきた。

引き続き「黄金餅」。
これも、実は「悪党の世紀」の作と考えてよさそうなのである。

金山寺味噌を売る金兵衛と願人坊主の西念が住む長屋があるのが、
下谷の山崎町。※1

ここは明治になり万年町、今は東上野4丁目と北上野1丁目。
上野駅の北東、昭和通りの両側にバイクやが並んでいるあたりの
東側、銀座線の引き込み線があるが、あのあたり。
拙亭のある元浅草とも目と鼻の先。もちろん今は上野駅も近い
きれいなオフィス街、マンション街。

江戸の頃は、江戸にもいくつかあった極貧の貧民街のうちの一つ。
戦後オリンピック前の再開発までまあ、そう大きく変わらなかった
のだと思う。舞台俳優の唐十郎氏は「下谷万年町物語」という作品を
残されており、同町の生まれ育ちであったのは有名である。

今、あまりこういうことを書くのは憚られる風潮があると思うが
学術的にも文化的にも覆い隠すのではなく、正しく知っていて
然るべきことと考える。特に庶民の文化、落語について書こうと
すればなおさらのこと。歴史的にも文化的にもリアルな姿を知らず
してなにを語れようか。その代わり正しい姿を追求することは必須で
あるが。

願人坊主(がんにんぼうず)である。落語にはまあ、出てくる。
乞食坊主と表現される場合もあるが、願人坊主と乞食坊主は違っている。

日本近世史では「身分的周縁」という言葉が使われているようだが、
この分野、研究が進んでいるのだろう。
落語の中ではもらって歩く乞食坊主と同義と説明されるが「願人」と
いうのが正しい呼び名で、江戸期には特定の寺に所属し、托鉢をし、
本山に上納金を払い、身分的にはきちんとした僧籍を持っていた人々。
似非(えせ)ではない。願人自体が身分といってもよいのであろう。
この山崎町にはこうした願人が多く住む長屋が集まっていたよう。
(「身分的周縁」塚田 孝/吉田 伸之/脇田 修 編~「江戸の願人と
都市社会」)

ただ最下層であることは間違いないのだろう。
黄金餅」で下谷山崎町の貧乏長屋に願人坊主の西念が住んでいた
というのは、いわば史実といってよいのである。

この作品が幕末の作であるという明確な考証はできないようなのだが、
「新版三遊亭円朝」(永井啓夫)では「幕末時代好みの貧民街の
描写」などと表現されており、円朝作ではないが円朝も演じていた
と思われることなど考え合わせ、この時代の作とみて私はよいと考える。
詳細は現代のものともちろん違っているが、噺の骨格、肝は変わっていない。

そして「悪党の世紀」というのは「唐茄子屋政談」でもみてきたが、
元来最下層の人々には、食えない、という意味で、さらに厳しい
時代であったと思われる。これが「黄金餅」の世界なのである。

また、同じところに願人ではない金山寺味噌売りの男も混じって
住んでいたということ。もちろんこの男も食うや食わずである。
これもポイントである。必ずしも分離されていない。皆同じ極貧。
隣同士で顔馴染み、もちろん普段の付き合いもある。これが江戸と
いうところの特徴ではなかろうか。もちろん、これは落語にも反映
されているのである。

さて。
少し早く仕事を切り上げ帰ってきた金山寺味噌売りの金兵衛、
寝込んで長い西念を見舞ってやる。

くると、西念、やせ細って「これ以上骨が邪魔をしてやせられねえ」
くらい。医者か薬は「薬九層倍(くそうばい)といって」儲けられる
ので世話にはならない、といっている。
じゃあ、なんか食いたいものはないのか。元気が出るぜと、金兵衛。
表の菓子やのあんころ餅が喰いたいという。二貫。
「あなたは、見舞いにきたんだから、あなたが買ってください。」
「俺が買うのかい?ま、いいや。」

金「ほら、買ってきたぜ」
西「ありがとうございます。じゃあ、金さん家へ帰って一服やって
  下さい。」
金「そんなこというなよ。せっかく買ってきたんだから、見てる前で
  一つでも二つでも食いなよ。」
西「私は、人が見ていると食べられない性分で。」
金「わかったよ。じゃ、なんかあったら呼ぶんだよ。隣なんだから。」

 ~なんだ、しみったれ野郎。金さんあんたも一つお上がんなさい
 くらい言ったって、ばちは当たらねえじゃねえか。

 どんなふうにして食うのか、ちっと見てやろうじゃねえか。

 壁の穴から覗いてみる。
 と、布団の下から汚れた胴巻きを引き出して、キュッと、
 コクってぇと、中から一分金と二分金がザァ~~~~~と、、

 あ~~~~、貧乏してやがんのに、あんなに持ってやがったん
 だ~~~。

 と、野郎、買ってきたあんころ餅の餡だけみんななめちまう。
 なにするんだろうと見ていると、餅に金をくるんで、ングゥ、
 ングゥ、と、飲み込み始めた。
 
 ・・・野郎、金に気が残って、死ねねぇんだ・・・。
 
 と、
 ン、ン・・・・グ、グ、グ、、、。
 (喉に、、、)

 金兵衛、慌てて隣へ、駆け込む。
金「おー、でえじょぶか、、、」
西「ア、ア、ア、金さん、、、見たなぁ~~」
金「あーーー見ちゃいねえ、見ちゃいねえ、、、」

 ギュウ~~~~。

「お、お、お、でえじょぶか、お、お、
 (背中をさすり、叩く、、、)

 一つでも二つでもここに、吐き出せ、
 オイ、オイ。。。
 
 参(め)いっちめい※2やがった、、、。
 天下の通用(金)をみんな飲んじまいやがった。
 もったいねえことをしやがる。

 取りてえなぁ、、、、、。
 ところてんだと口から棒で突くと出るんだが、、、、
 なんか工夫はねえか、ねえか、ねえか、、。

 そうだ!。焼き場へ行って、骨上げんときに攫(さら)っちゃお。」

凄い光景ではないか。
「金に気が残って死ねない」西念。
餅にくるんで飲み込んでしまう。
壮絶である。これも人間。

「取りてーなー」という金兵衛。
これも、わかるだろう。
人情である。
これも人間。

ここから金兵衛は大家に知らせに行く。
そして、今際の際(いまわのきわ)に身寄り頼りがないので葬式万端、
後のことを頼まれた、という。
「そうかい。すまねえが、頼むよ。なあ。人のためにするんじゃない、
 みんな自分のためにするんだ」と大家。

 

 


※1「願人坊主と下谷山崎町」:円朝全集では、舞台は芝「将監殿橋
際の極貧ばかり住んでいる裏家」という設定。また、ただ「托鉢に出る
坊さん」で明確に願人とは語られていない。
この違いはなにか。このあたりも貧民街であったことは知られている。
下谷山崎町ではない、願人ではない設定が先なのか後なのかはわからず、
円朝以降である可能性は否定できない。しかし、その場合も山崎町に
願人が多く住んでいた記憶があり、変化したと考えてよいだろう。
また、この後、麻布まで長く歩く演出上、場所は下谷山崎町である必要は
ある。(長く歩くのは円朝、あるいはその周辺の演出ではないということ
である。)
一方、志ん生でも山崎町は当然固定されるが、ただの乞食坊主で願人と
語らない場合もあった。まあ、この人は根っからのズボラから台詞が
ブレていた可能性は否定できないが。
もう少しいうとこの噺、構造的には似非坊主でも願人でもどちらでもよい。
山崎町に願人が多く住んでいたことが江戸末周知のことと考えれば
この記憶がある明治の早い頃に既に(円朝以外によって)山崎町に
なっていた、あるいは円朝以外のバージョンが円朝と同時期既にあり、
こちらは山崎町と願人のセットであった可能性もあろう。推測であるが。

※2「参(め)いっちめい」:参る、まいる。死んでしまうこと。
江戸弁といってよいのか。

 

つづく

 

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より