浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



五反田〜赤羽橋 麻布飯倉野田岩本店・別館その1

2月28日(水)夜


水曜日。


なにを食べようか。


うなぎ。


そうだ。


久しぶりに麻布の[野田岩]に行こうか。
五反田からの帰りに行ったことはない。


どう行くのがよいのであろうか。
調べてみると、バス、というのが出てきた。


五反田駅から都バス、赤羽橋行き。
ほう、そんなバスがあったのか。


五反田で仕事をするようになって、
しばらく経つが、都バスを使ったことはない。
五反田駅の東口にはバスロータリーがあって
バスが出ているのは知っていたが。


18時38分、都バス反94系統、赤羽橋行き。


都バスというのは多くが旧都電路線の
置き換えなのだが、調べてみると、同じところを
走っていた、4系統というのがあったようである。
ただし、4系統は五反田駅発で赤羽橋からさらに先、
金杉橋、新橋、銀座二丁目が終点であったよう。


今の都営浅草線が五反田から、新橋、銀座を通っているが
これもその一部といえるのであろう。


都バスは五反田からは清生公前、魚籃坂下、古川橋、
と、通り、赤羽橋。


と、いうことなのだが、私自身、このあたりの
地理にはまったく不案内。
東京生まれでも、普段通らないところは
まったくわからないものである。


ちょっと、探索のつもりで乗ってみよう。

地図

乗ってみると、座席は埋まっているが、
立っている人はいないくらい。


まずは、桜田通りを北上、坂道である。


高輪台、左側に明治学院


清生公前。


ここまでの江戸の地図も出してしまおう。


いつもの江戸切絵図なのだが、距離が長く、
かつ、それぞれ端っこの方なので、全部で3枚に渡る。


まずは五反田から清生公前あたりまで。



切絵図は「目黒白金」。


高輪台から斜め左に折れて明治学院前の交差点までは
江戸の頃は通りはない。


明治学院の交差点あたりの古い町名は
二本榎。


この交差点付近にあった上行寺という
お寺の門前に文字通り二本の榎の古木があったことに
由来している。


先日の品川の八つ山同様、この地域のランドマークで
あったわけである。
今の桜田通りは五反田の先で中原街道になる。
以前にも書いたが江戸の頃もこの通りは東海道脇街道として
人、物の往来は盛んであった。
この二本榎は一里塚的な役割を持っていたようで
江戸期焼けるたびに植え替えられていたという。


上行寺というお寺は戦後に移転しているようだが
なん代目かの二本の榎は近くの黄梅院という
お寺さんにあり町内会の人々によって大切に
されているとのこと。


明治学院の先、坂を下りて、清生公前。


清生公前、というのはご近所の方でなければ
読めない方もあるかもしれぬ。


セイショウコウマエ。


清生公とは?。


これもご存知ではない方も多くあろう。


あの、戦国武将、加藤清正のこと。


以前、東京・江戸でも加藤清正は人気があった
のである。


この交差点の左側に今もあるお寺、覚林寺に
加藤清正公が祀られているのである。
それでこのお寺が通称、清生公様。


江戸弁だと、セイショコサマとウが抜ける。


ここには元肥熊本藩細川家の中屋敷があり、
お寺を開いたのは、朝鮮出兵時に清正が
連れてきた朝鮮王子の日延という人とのこと。
なかなかの歴史である。


このあたり、白金あるいは三田・樹木谷と
いっていたようである。


すり鉢のような、周辺から下がった谷地。
谷地なので谷はよいが、樹木は
木が鬱蒼と茂っていたということか。


樹木谷(ジュモクダニ)は地獄谷(ジゴクダニ)からの
由来、という説もあるがよくわからない。


いずれにしても人家も建っていなかったようで、
多少淋しいところではあったのであろう。


江戸の地図をもう一つ。



このあたりの東側、
「芝高輪二本榎辺図」。




この調子である。
長くなるが、きょうはこの辺で。












麻布・五代目野田岩
電話番号:03-3583-7852
住所: 東京都港区東麻布1丁目5−4