浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



五反田桜並木と・カレーの店・うどん

4月5日(水)昼


さて。


まずは、桜。



これはオフィスそばの五反田の桜並木。


ようやく、ほぼ満開。

現代の地図

ピンク色のラインを入れたが、この通り。

五反田駅西口から桜田通りを渡って西方向に入っている。


この桜並木、通りにも、地図にも特に名前の表示はない。
地元では“桜通り”などと言っている人もいるようであるが、
品川区や地元商店街、町会などを含めて定めた名前はないのであろう。


ただ、名前もなく、ここが桜並木になっているのは
ちと、妙ではある。


なんであろうか。


以前から書いている通り、この界隈は、当時二業地、三業地
と呼ばれた、芸者さんがいた五反田花柳界であった
わけである。


この五反田花柳界の中の通りということができ、
その当時に植えられたのではなかろうか。
それで地図も、三業地の範囲を想像したものを使っている。
(今回修正。)


そして、前にも出しているが戦前、昭和16年の地図。


(「二業地」の表示、「壽々川」は料亭であろうか。「第一大崎館」は
映画館であろうか。まさに盛り場である。)



が、ここには「通り」そのものがまだないのである。
桜田通りもないので入れてみた。


おそらく、桜田通りも桜並木の通りも戦後、なのであろう。


五反田花柳界は大正10年に二業地指定をされている。
翌年の数字では料理屋(料亭)36軒、芸妓屋(芸者置屋)38軒。
(『花街 異空間の都市史』加藤政洋 2005年)


これは既に東京でもかなりの規模。
戦争で焼け野原になるが、復興し、昭和30年に
料亭・待合組合員数が52軒(芸妓屋を除いた数字ということか)。
戦中の最盛期に比べれば少ないが、大いに盛り返している。
そして、そこからは数を減らしているが、昭和47年にはまだ、
11軒もあったのである。(前出)


やはり五反田花柳界の中の通りとして桜が植えられた
というのは十分にあり得る話、であろう。


ただ、今、その花柳界の名残であるホテル街は山手線沿いだけ。
この桜並木はその一本、目黒川寄り。
ここには今は花柳界の名残らしきものは見当たらないが、
やはり中心的な通りであった可能性は高かろう。


閑話休題


そんな水曜日の昼飯。


ちょっと早めに出て、以前好きでよく行っていた
スープカレー店をのぞいてみた。
[カレーの店・うどん]という不思議な名前。


五反田のオフィスに引っ越してきて、きてみたのだが、
いつも満席。
一人でやっているのと、人気も上がっているのかもしれぬと
思って、足を向けなかったのである。


12時少し前、きてみると先客は二人ほど。
これならばと入ってみた。


メニューはこんな感じ。
やはり、以前と不思議さ加減は変わっていない。


17年目になるのか。
ご主人も、短髪の頭にも白いものが混じるようになっている。


季節のカレー4月を、頼む。


きた。


アップ。


見た目にはスープにはまったく見えないが、
これがちゃんとサラサラのスープ。


ご飯にかけずに、スープを飲み、別にご飯を食べる、
これがこの店のリコメンド。
実際そうした方がうまい。


辛め。


入っているのは、メニューに書いてある通り、
セロリ、アスパラ、しし唐、鶏ひき肉、小柱。


この野菜類もカレーに合っているが、
特筆すべきは、小柱。


これは、いわゆる青柳(ばか貝)の貝柱、で、あろうか。


それにしては、旨みたっぷり。
カレーの味に負けていない。
生の青柳の小柱はもう少し淡泊ではなかろうか。


そんなものがあるのかわからぬが、
乾物を戻したものなのか。


いずれにしても、流石なもの。


しばらくこぬうちに、このご主人、だいぶ
進化されたのかもしれぬ。


けっこう汗をかいて、食べ終わる。


うまかった、うまかった。


会計をして、出る。


既に満席。


よかった、早めにきて。


昼は早め。
今度は夜にでもこようか。






カレーの店 うどん
品川区西五反田2-31-5