浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



新橋と新橋駅前ビル・ビーフン東 その1

3月23日(木)昼


昼をはさんで、五反田から、日本橋へ移動。


どこで昼飯を食おうか。


五反田から日本橋への移動方法は2ルートある。


一つは、都営浅草線で、一本。


普通はこれを使うのだが「乗換案内」で調べると、
なぜだか山手線経由、新橋乗り換え銀座線というのが
上の方に出てくる、のである。
乗り換えがあるにもかかわらず。


山手線、銀座線の方が本数が多いからであろうか。


今日は、この山手線〜銀座線経由を使ってみることにする。


で、昼飯。


日本橋でもよいのだが、せっかく(?)乗り換えるのだから
新橋にしようか。


新橋で昼飯というと、途端に選択肢が広がる。


ただ、乗り換えなので、あまり駅から離れたくはない。


ん!。


だいぶご無沙汰だが、駅の東側、
駅前ビルの[ビーフン東]へ行ってみようかしら。


ここは、池波レシピ。


新橋駅前というのは、東、汐留口側は「新橋駅前ビル」という
名前で駅のロータリーに面してビルが二つある。
左が一号館で右が二号館。[ビーフン東]があるのは一号館。


ついでだが、烏森口の方にも向かって左側に
ニュー新橋ビルという駅前ビルがある。


ご存知の方も多かろうが、どちらも味がある。


古い。


新橋というと、サラリーマンの街、などとよくいわれるが
そんなものを象徴しているのがこれらの三つの駅前ビル
ではないだろうか。


新橋。


私などは、勤め先にしても住まいにしても
地元であったことはないので隅から隅まで
知り尽くしているというところではない。


いい機会なので江戸から新橋をふり返ってみようか。


今、新橋というと、新橋駅周辺をいうと思うが、
そもそも、新橋って、なんのことであるかお分かりであろうか。


そう。


文字通り、橋のこと。


橋の名前である。


新橋という橋があったのである。


江戸の地図



現代

江戸の地図の右上。
表示を入れた。


正式名称は芝口御門。
橋の名前の別名が「新橋」。
これが新橋の由来である。


この橋が通っていたのは、今の中央通り。
銀座との境目である。
銀座ナインのモールがあって、上は首都高。
以前はここは汐留川という川があったわけである。


中央通りは第一京浜となって、旧東海道になる。


今は新橋駅周辺が新橋という町名であるが、
江戸の地図を見ると、新橋という町名はなくて、
“新橋”渡ったところは芝口と呼ばれていたのがわかる。


新橋芸者という名前を聞いたことがある方も多かろう。
今の銀座7丁目、8丁目あたりの高級クラブの前身が新橋芸者。
また、このあたり、古くは金春芸者と呼ばれていた。


ただし、今の新橋側にも芸者町はあった。
どこかといえば、烏森のSL広場の奥の
烏森神社のある一角。
それで烏森芸者。だが、新橋芸者とは呼ばれていたのは
あくまで金春の方であった。


今の銀座側の芸者町が、明治新政府の大立者も呼び寄せ
それこそ日本一の芸者町になるのはむろん明治に入ってから。


つまり、明治期、銀座側が新橋と呼ばれていた
ということである。


しかし、今の新橋側も明治の初期に既に新橋と
呼ばれていた例はある。


なにか。


「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり・・・」


でお馴染み。


我が国初の鉄道が、新橋・横浜間に明治5年に開業しているが
その始発駅が新橋。
ただ、これは今の新橋駅の場所ではない。


新橋停車場、と呼ばれ、汐留再開発で今、その場所に
プラットフォームなどが復元され、JRの展示室ができている。
現代の地図にマークを入れたが旧芝口御門からは少し
南東に離れた汐留。


これが今の新橋側が新橋と呼ばれるように
なったのは、一つの契機であろう。


新橋停車場はその後の大正3年東京駅が開業し、
ターミナル駅機能が東京駅に移り貨物駅の汐留駅になる。


今の新橋駅が開業したのはこれ以前の明治42年
駅名は烏森駅。
そして、新橋停車場の廃止とともに新橋駅の名前が
烏森駅に引き継がれた。


最終的には、これで今の新橋という呼び名が
銀座側ではなく、芝口側に移っていったと考えている。






つづく