さて。
長々夏休みのモルディブのことを書いたが、
モルディブで読んだ本とそこから考えたことを少し
書いてみたい。
数回に分けてちょっと長くなるが
お付き合いをいただければ幸いである。
少し前にNHKスペシャルでやっていた、諏訪地方の
御柱祭のことを書いた。
諏訪というのは私の母親の出身地でもあり、
私自身も御柱を少しだけ曳かせていただいたこともある。
ここからいくつか関連書を読んでいるのだが、その一つ。
Nスペのタネ本の一つかもしれないもの。
「諏訪の神: 封印された縄文の血祭り」戸矢 学
戸矢氏というのは私は存知あげていなかった方だが、
国学院の神道学科を出られて、神道、日本の神、神話などの分野で
ノンフィクションを書かれている。63歳。
かなりおもしろく、刺激的であった。
御柱祭、あるいは、諏訪大社そのものを歴史学、神話、
考古学、神道、民俗学などなど様々な角度から解き明かしている。
目から鱗。
また、中には随分とショッキングな内容もあった。
Nスペでもこの文脈で語られていたのだが、諏訪地方は
縄文文化を最後まで守っていた地域であったこと。
そして、諏訪大社及び、御柱祭はやはり縄文時代の
日本人の神意識というのか、精神世界、あるいは世界感に
その起源を発しているということ。
やはりこれが最大の肝であろう。
我々日本人の奥底にある本質とはいったいどんなことで
それはいつ形成されたか、ということに
リーズナブルに答えを出していると思われる。
私達はどこからきたのか、という問いへの
回答といってよい。
私自身とすれば、大袈裟ではなく
長年の霧が晴れたようにすら思っている。
さて。
まずは、本書で説き起こされている諏訪大社について。
(著作の紹介にもなる。ご興味のある方は
直接お読みいただいた方がよいかもしれぬ。)
まずは諏訪大社の祭神について。
諏訪大社の祭神というのは建御名方命(たけみなかたのみこと)
という神様であると公式にはなっている。
諏訪大社の祭神に関する二つの通説がある。
正確には、大社は上社本宮(かみしゃほんみや)、
上社前宮(かみしゃまえみや)、下社春宮(しもしゃはるみや)、
下社秋宮(しもしゃあきみや)の四つの神社からなっており、
祭神も違うのだが最も中心的な上社本宮の祭神が建御名方命と
なっているということである。
以下、この文章では若干省略した書き方をするが、
ご了承いただきたい。
古事記には出雲の国譲りというくだりがある。
この中で大国主命(おおくにぬしのみこと)の次男の
建御名方命が反抗したが負けて諏訪地方に逃げ、
ここから出ないことを約束して許してもらった、
となっている。
これが諏訪大社が建御名方命を祭神としている
起源ということになっている。
これが一つ。
また、もう一つ。
諏訪大社の神職の一つに神長官(じんちょうかん)というものがある。
守矢氏という家があり、この家が代々この役職を務めていたのだが、
この家は建御名方命以前からの古い諏訪の神の子孫で
諏訪に入ってきた建御名方命に抵抗した。
これがもう一つの諏訪大社の、定説。
この二つの諏訪大社の祭神に関する通説に対して、
そうではない、と異を唱えている。
守矢氏の起源というのは実は、物部守屋である、と
様々な観点から説き起こしている。
いきなり、妙な名前が飛び出している。
物部守屋という名前を憶えておいでの方は、
そう多くはないかもしれない。
物部氏は蘇我氏と並ぶ古墳時代、大和朝廷の有力豪族。
守屋はその長(おさ)で大連(おおむらじ)。
時代的には大化の改新のすぐ前の人物。
朝廷内の権力闘争に敗れ、蘇我馬子などによって滅ぼされた。
これは教科書にも載っている、まあ、史実なのであろう。
この守屋が葬られたのが諏訪大社上社で先の守矢氏は
その末裔というのである。
先の“国譲り”の建御名方命は同じ頃の朝廷の
正式な史書である日本書紀には記載がなく、
古事記のみであること。
物部守屋は朝廷内の権力闘争に負けたのであるが、
勝った蘇我氏や天皇家は武勇に優れた守屋の祟りを恐れ、
四天王寺を建立している。
これと同時に諏訪大社に物部守屋を建御名方命として封じ、
古事記の国譲り神話に建御名方命の部分を創作、挿入した、
という説である。
まったく大胆な説である。
本来の諏訪大社の神はミシャクジというもので
これが今も守矢家が守っている。(これはNスペでも
やっていた事実。)
諏訪神社というのは全国に分布し、諏訪信仰の
広がりは実に大きい。
これは、武勇に優れた、物部守屋に対する信仰であった
のではないか、と。主として、その後の武士からの。
大胆な説であるが、大いにうなずいてしまった。
権力闘争に敗れて滅ぼされて、神になるというと
平安期の菅原道真を思い出す方も多かろう。
時代としてはさらに古いが、滅ぼされ、ある種の神となり、
祟りを起すものとして滅ぼした権力側からは恐れられ、
封じる対象となった。だが、一般からは崇敬される対象となる。
なぜ物部守屋が諏訪に逃れたのか、というのは、
彼らの領地であったから、という説明がなされている。
そして、守屋は諏訪大社に葬られ、ここで祭神が
ミシャクシから建御名方命に替わっという。
物部守屋が滅ぼされたのは587年ということになっている。
この時代とはいえ、そもそもこんなことが簡単に起こるのか
という疑問も浮かんではくる。
今ある四つのお宮のうち、下社の二つはこの祭神の交替後に
新たに、朝廷によって作られているという。そしてこの下社の
神職は朝廷から派遣され官位も上社よりも高いとのこと。
この下社が朝廷の意志によって新たに作られたのは
祟りを起す神となった物部守屋を封じるためのお目付け役
という意味であったのではないかという。
これも祭神の交替(古くからの神→建御名方命=物部守屋)の
ある種の裏付け。
一地方の神社ではあるが、朝廷を巻き込んで、多分に政治的であり、
ダイナミックなことが起きていたという仮説ではある。
とても興味深いではないか。
ただ、不思議なのは祭神が替わるという神社にとっては
一大事のことなのだが、伝承にしても記録にしても
あまりはっきりしていない。いや、むしろ、皆無である。
唯一の説明は、先に出した、古事記の国譲りの部分。
つまり、表向きは建御名方命の話し(神話)を正しいものとし
物部守屋のことは秘された。
例えば、当時は諏訪の人々は守屋の件は皆知っていたことだが、
知らないこと、語ってはいけないアンタッチャブルなこととして
扱われたのではないか。公然の秘密として。
そして、平安時代、鎌倉、室町、戦国、江戸までで1000年以上。
時代が経つに従って、諏訪神社=建御名方命=物部守屋
(武勇の神)が秘められているうちに段々に一般にも
忘れられていった。
むろん、今では御柱を曳く諏訪地方の氏子達は誰も知らない。
これがまさに諏訪大社の秘められた真実なのか。
つづく