浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



人形町・洋食・小春軒 その1 東京下町、古い街のこと

dancyotei2016-04-06

4月5日(火)昼


お昼、浜町。


人形町で昼飯を食おう。


時刻は11時半。


昼の混雑前でよい頃である。


で、あれば洋食の[小春軒]。


人形町というのは東京でも好きな街である。
老舗の食い物やも多い。


ただ老舗が多いというのでは、私の住む浅草だったり、上野、
人形町の隣の三越のある日本橋室町あたり、あるいは銀座、新橋など
東京下町の古くからの繁華街は皆、ある程度同じことである。


しかし、人形町はこれらの街と比べても
どこかが違っている。


ただ、今は、よくよく見れば違っているのだが、
表面だけみると飲食店街にオフィスなどが
入り混じっている街で他の東京の街ともそう大きくは
違わないようにも見えるようにはなっている。


私がこの街を歩くようになったのはたかだか
10年、20年程度前からであるが、その頃でさえ
今と比べればもっと違っていた。


なにかといえば、古い東京下町の街のにおいが
微かにではあるが、人形町には残っている。


もう一か所、有名なところでこのにおいが残っている街があるが、
おわかりになろうか。


神田須田町界隈。
蕎麦やの神田[やぶ]、同じく[まつや]、あんこう鍋の
[いせ源]などのある一角。


この古い東京下町のにおいがなぜ残ったのか。
それは、第二次大戦の東京大空襲などで焼けていないということである。


ご存知のように東京という都市は戦災でほぼ完全に破壊し尽くされた。
だがしかし、幸運にもほんの一部、被害に遭わなかったところも
あったのである。


細かく見ると下町だけではなく、山手などを含めて東京都心で
戦災に遭っていないところは他にもあるのだが、
もともと盛り場であったところというとそう多くはない。。
(例えば須田町の隣の以前の青物市場であった神田多町なども焼け残り。
また古本屋街の神田神保町なども焼け残った街ではあるが、
盛り場、飲食街というのとはちょっと違っていよう。)


第二次大戦の戦災で焼かれていないというのは、
その前の街並みが残っているということになる。
(逆にいえば、東京のほとんどの街は戦後、
ゼロから造り直した街である。)


その前の街並みというと明治、あるいは、江戸時代になるのか?。


そうではないところが、東京という街の不運なところである。
第二次大戦の前にも東京のほぼ全域が焼き尽くされたことがあった。


そう。いわずと知れた、関東大震災である。


まあ、関東大震災で同じように焼け残ったと街も
あったのかもしれぬがそのほとんどは次の戦災で
焼かれているという結果になっているのであろう。
したがって、江戸や明治の街並みの痕跡は東京には
ほぼないといってよろしかろう。


ちょっと脱線するが、これは街並みに限らない。
例えば神社仏閣などもしかりである。


京都などでは国宝などに指定されている、江戸期、
あるいはさらに前の建物なども数多いわけである。


江戸にも例えば幕府の菩提寺、上野寛永寺
芝の増上寺、あるいは浅草寺江戸城そのもの、、など、
今から考えれば大規模で文化的な価値のあるもの、
今あればそれこそ世界遺産になっていてよいものが
ごろごろ、山ほどあったわけである。
こういったものもほとんど残っていない。
東京は江戸から含めれば400年以上、事実上我が国の
首都であった都市である。
これは、大いに悲しむべきことだと思われまいか。


ともあれ。


人形町神田須田町というのは、大正時代の関東大震災
つまり昭和ヒトケタの頃、震災後に復興した建物と街並みが
残ったということなのである。


今となっては、神田須田町にしても、最初に書いたように
人形町も残っていた昭和初期の建物も、バブル期
あるいは最近の都心再開発で大半は消え去っていった。


ただ、それでもよくよく探すとわずかに残ってはいる。
そういう建物を探すのもおもしろい。※


人形町のことを考えると、もう一つ。
やっぱり、花柳界であったということ。

下町歩き

明治の人形町

こういう昭和初期のにおいを今でも多少でも残している
(つまり戦災で焼け残った)盛り場で、花柳界であったところは、
ここだけではあるまいか。他は皆、戦災で一度なくなり、
新しい形で復活していると思われる。
これではやはり、商売替えをしている家もあろうし、
経営が替っている家も多くあろう。


結局、これは街としての継続性ということになると思うのだが、
人形町は同じ名前の洋食店が戦前戦後とそのままあって、
経営もその一族が今でも継続してやっている。


これが今でもそれなりの雰囲気を残して
街として生きているところは、やはりなかろう。


しかしおもしろいのは、芸者さんそのものや
見番などは人形町からはなくなっているということ。


東京でも残っているのは、浅草、向島あたりであろうか、
花柳界として生きているかどうかは別として
芸者さんが残っているところはある。
これには観光のような別の要素もあるのであろう。


また、ちょっと不思議なのは、人形町
老舗の値段の高さである。
有名な老舗を挙げると、すき焼きの[今半]、
同じく[日山]、鮨[喜寿司]、料亭の[濱田家]
この前いった軍鶏鍋[玉ひで]等々他にもまだまだあるが、
今でもかなりの高額を取る。


花柳界の食いものやというのは、基本ある程度
どこでも高額であるが、それでもこれだ固まって数多くあるのは
ここだけではなかろうか。





つづく





震災後の建物かどうかを見分けるのには、ちょっとしたポイントがある。
飲食店や商店であれば看板建築などというが、表に向かって
銅などで葺いた平たい造りになっているもの。
もう一つ、日本建築であれば、表に向かって屋根に近いところに
かなり太い材木が見えている。

・参考

看板建築(ウィキペディア)

神田多町松本家住宅(千代田区観光協会)