浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

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五反田・讃岐うどん・おにやんまと五反田考 その3

dancyotei2015-12-13



12月8日(火)



さて。


五反田の讃岐うどん[おにやんま]と
五反田考の続きを書かなければいけない。


[おにやんま]8日火曜日の朝。





鶏天、ちくわ天が両方載ったものを食べたが、
これは鶏天のみのもの。


いつもジュウジュウいっている鶏天。


寒くなってくると、これはなにより。


もはや私の五反田行き返りの定番。


ともあれ。と、いうことで、五反田考。


前回は第一次大戦を境にして、このあたり、大崎・五反田
というのは大きく変わった。


今に残る大企業を含めて続々と工場ができ
住宅を含めて密集するようになり、明治の頃の、
東京郊外の田園から瞬く間に様相が変わっていった
のである。


五反田駅の開業が明治最後の年の44年。
第一次大戦大正3年から7年。


工場に働く人々が爆発的に増えていったのである。


そして大正10年(1921年)もう一つの
五反田にとって大きな出来事があったのである。


これが五反田の街の成り立ちのもう一つの大きなもの。


おわかりになろうか。


二業地の指定である。


花街。ハナマチ、あるいはカガイ。
一般には花柳界と呼ばれていたものである。


今、花街というと、京都の祇園やら、
江戸の情緒を残す風雅な、というイメージを
抱かれる方も多かろう。
だが、そう思ってしまうと大きな間違い。


当時の“風俗”と思った方が当たっている。
そういう意味でこの五反田二業地指定が、
今の五反田のホテル街、“風俗”街のスタート
といってよいのであろう。


三業地というところが多いが、
芸者置屋、待合、料亭(料理屋)この三つの業態で三業。


芸者置屋は芸者さんの住まいでもあり、
マネージメントをする家。
料亭はもちろん、料理を作る家。
待合は、貸座敷などとも呼ばれるが、
お座敷、部屋を貸す。


待合、貸座敷という業態は今は滅んでいるが
以前は料理を作る料亭と分業されており
酒ぐらいは待合で出すが、料理が食べたい場合は
料亭に頼んで取っていたのである。


五反田の場合はその後すぐに三業地になるのだが
当初は待合がなく、二業地の指定であったようである。


そもそも五反田花街のスタートは
この二業地指定の数年前の数軒の“鉱泉旅館”。


最近は鉱泉も温泉という定義になって
都内でも新たに温泉施設が随分とできているが
その走りともいってもよいのであろう。


鉱泉を沸かした風呂を備えて、泊まることもできる
旅館として商売を始めた。


また、この前の明治期には大井、大森海岸、芝浦、穴守(羽田)
などの海が見えるところに、こうした花柳界ができていったのだが
これらは眺めがよく、魚もうまい、というのを売りにして
お客を呼んでいた。


こうした流れの中で五反田に鉱泉旅館ができた。
まあ、昔も今もいろんなことを考えるもんである。


そして、大正10年(1921年)の“業”地域指定となり
翌年の数字では料理屋(料亭)36軒、芸妓屋(芸者置屋)38軒。
(『花街 異空間の都市史』加藤政洋 2005年)


まったく、雨後の筍というのであろうか。
鉱泉旅館兼芸者さんを呼ぶお座敷として
これだけの規模のものが五反田の街にできたのである。
驚くべきことではある。


さて、この大正10年(1921年)の指定というのは
“業”地域指定の最初であった。
お上とすれば、江戸の昔から今も変わっていないが管理をしたい。
町中のいたるところにできてしまっては風紀上よろしくない。
まとめましょう。そして、業態も二業、三業と決めて許可制にし
実態を把握する。そういう意図である。


この年に同時に指定されていたのが、台東区の根岸で、
これが今の鶯谷駅前のホテル街の素である。


試みに同じ年の根岸の数字をみてみると、こちらは三業地で料理屋23軒、
待合17軒、芸妓屋35軒。(前出)ほぼ同じような規模であろうか。


さて、ここでもう一つの大切な資料(史料)を紹介しよう。


昭和4年発行の松川二郎著「全国花街めぐり」で、ある。


この当時の花街、花柳界の有様がどんなであったか
調べようと思うと、記録の類はほぼない。


五反田は品川区であるが、戦後発行された品川区史など公的なものには、
当然であろうが、五反田花街のことは書かれていない。
まあ、秘すべき悪しき歴史なのであろう。


この「全国花街めぐり」は、いわば当時の風俗案内なのであるが、
値段、雰囲気、店の数、名前、人気の女の子の名前等々まで、
かなり詳細に書かれているのである。


いわば、貴重な一次資料なのである。


なん度も書いているが、この戦前にできた五反田花街が取りも直さず
今の五反田の街を形作ったわけであり、この歴史を見なければ
五反田の街を見たことにはならない。


価値判断とは別に、悪しき記憶としてふたをしてすませて
いいことではないと私は思うのである。






おにやんま
品川区西五反田1-6-3




参考「近代東京における花街の成立」西村 亮彦・内藤 廣・中井 祐 2008年