浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



2015年鳥越祭 その4

dancyotei2015-06-11

4回目になってしまったが、

引き続き、6日、7日の鳥越祭。

7日日曜、好天に恵まれた本社神輿の渡御。

隣町の永住町から、当、七軒町へ受け渡され、

特段の混乱もなく、担ぎ始め、狭い路地を曲がった。

狭い路地で担ぎ手で芋を洗うよう。

うっかりそばへ寄ると、担がない人間は危ないし

担ぎ手にも迷惑である。

このまま真っ直ぐいって、春日通りに出るのだが、

私は迂回して、春日通り側へ先回りしてみる。

春日通りはもう交通は止められ、神輿の行列の先は

通りに出ている。

後ろ姿だが、花笠を背中にのせた、

手古舞(てこまい)のお嬢さん。



ちょっと見ずらいが、左手にはお嬢さんの名前入りの提灯。

右手には金棒を持っている。

金棒というのは、ご存知の方は少ないと思うが、鉄の棒で、

上に2〜3の輪っかが付いていて棒を地面につくと音が出る。

(もともとは火の用心の夜回りなど、警護、警備をする人の

持ち物であった。)

この手古舞は以前は、芸者さんがやるものであったが、

花柳界がなくなった今、氏子のお嬢さんがつとめている。

頭はむろん今はかつらであろうが、男の髷(まげ)で、

格好もこれは裁っ着け袴(たっつけばかま)というもので、

男の格好。

男の格好を、美しい芸者さんがするのが、よかった、

のであるが、

現代となっては、それもわからなくなっている。

ともあれ。

神輿は、春日通りに出ようとしているが、

その前に、一休みだ。



もう一度、担ぎ出し。



春日通りに出て、サス。



今は祭の神輿でしか使わないが、サスというのは古い江戸弁で

持ち上げること。

これ、そこそこきれいにあがっているが、重い千貫神輿のこと、

意外にむずかしいのである。

おおかたは、斜めになり真っ直ぐに上がらない。

新御徒町駅前。



幅の広い春日通りを目一杯使って担げるのは気持ちがよい。

だが、あっという間である。





お疲れ様でした。

2015年の七軒町、鳥越祭本社神輿渡御無事終了。

七軒町の担ぎ手は後ろへさがり、替わって次の小島二西の

担ぎ手が登場。

たいていどこの町でも一つや二つの小競合い、喧嘩は

あるものだが、毎年、当町はきれいなものである。

おとなしいともいえるのか。

さて。

鳥越祭、この後はどうなるのか。

今年は見には行かなかったが、この後、南に向かって渡御は続き、

最後神社前、蔵前橋通りをバリケードで封鎖しての宮元町会があって、

夜9時すぎに、宮出しと同様、睦による宮入ですべて終了。

さてさて。

やはり、わが町のお祭というのはよいものであると、

私などは思う。

しかし、下町の生まれ育ちでもお祭が嫌い、嫌いとまでいわなくとも

興味がないという人というはいる。

(そもそもこういう方は、下町が嫌いということが多いのであろう。

田舎とは違っていようが、ある種濃密な人間関係を持っているのが

その理由という人は多いようである。)

私自身はこの町の生まれ育ちではない。

そういう意味では、お祭であれば、なんでも好き、

ただの祭好き、といってもよいのかもしれぬ。

以前に一度だけ母親の生まれ故郷である、長野県諏訪の御柱祭に、

伯母がいた関係で町の法被を着せてもらい、御柱の綱を

引いたことがある。あれも忘れられない経験であった。

やはり、ただの祭り好きの見物人ではなく、この町に住み、

揃いの半纏を着て参加資格があるというのが、

とてつもなくうれしい、のである。

元来、祭というのは、大工さんなどが太子講といって

大工さんだけの祭をしたりする、職業による祭というものも

なくはないが、一般には、地縁によるものが基本であろう。

つまり、住んでいる地域の神社の祭である。

産土神という言い方が正しいのだろうが、

土地それぞれには、そこを守る神様がいる。

これは宗教というよりも、日本人が古来から持ってきた

世界観といった方がよかろう。

この神様へ感謝をしたり、パワーをもらったり、

疫病退散、災厄を祓う、降雨を願う(雨乞い)、

豊年満作、台風が来ぬように、その他様々の

願いをする。(副次的に、そのマチやムラの

結束を高めるという目的もあろう。また、民俗学

いうところの日常(ケ)生活で溜まったエントロピー

祭というハレの行事で解消し、またもう一年暮らす

という意味もあろう。(これがパワーをもらう

ということになるのか。))

ともあれ、産土神の祭は、住んでいるものが携わる。

住んでいないものは、基本関係ない。

そういうものであろう。

私などは、宗教ではなく文化として、やはり

こういう土地に根ざした神様とその祭というのは

どんなに時代が変わっても、田舎であれ、都会であれ

関係なくどこでも、我々日本人には必要なもの

なのではないかと思うのである。