江戸後期の江戸人。
昨日は、江戸人から東京人へと少し広がってしまったのだが、
『自由』を仮説のキーワードとして、考えている。
今日は現代と比べてどうなのか、あたりを考えてみようかと思う。
我々が普通に思うのは、封建社会で武士が君臨し、
ご法度もいろいろあり『不自由』ではなかったのか、
ということに対して、意外に『自由』であったのでは
という仮説ではある。
この仮説は、ひょっとすると
現代の価値観と比べても『自由』だったのではないか、とも
思えてくるわけである。
こうあらねばならない、という価値観から自由であった。
現代であれば、いい大学を出て、いい会社に入り、
あるいは安定した公務員になりetc.といった価値観。
比べると、人間らしく生きられた時代は、江戸では
なかったのか、と、思えてくる。
前に述べたように、江戸後期でも武士でも大身旗本であったり、
あるいは、大きな商家の跡継ぎであればそうそう『自由』ではなかろう。
しかし、ただそれも、抜け道はあり、いやであれば
あるいは才能があれば、やめて好きな道に進むということは現代よりも
たやすかったのではないか、と、思うのである。
これも時代の雰囲気として。
(前々回には書かなかったが、武士でも身分を捨てずに、
そのまま副業(?)として、絵を描いたり、読み本を書いたり、
狂歌師をしたり、という人は意外に多い。
例えば、太田蜀山人。狂歌師として超有名で、当時の文化人として
大いに売れた。この人はなん度も書いているが幕臣、御家人の
御徒組であった。また、酒井抱一なんという人もいる。
この人は琳派の大絵師であり、酒井雅楽頭家、姫路藩の
次男。つまり大名家である。身分が軽ければ、枚挙にいとまはない。
やはり現代よりも『自由』であったのではないか、と思われる。)
で、江戸後期の『自由』が現代では、少なくともそうではない
(ように少なくとも我々は感じている)。
では、これはいつからなのか。
やはり、明治になってからなのではないかと思うのである。
明治になり我が国の価値観は一変した。
いや、江戸(地域名としての江戸である)の価値観が、であろうか。
地方でお百姓であれば、いやでも田を耕す
という規範はあったと、先に考えた。
国の価値観として、文明開化、富国強兵が始まった。
欧米先進国に、追い付くことが国の至上命題となった
のである。
そのために教育を充実させねばならないので、学校ができ、
子供を小学校へは行かせねばならなくなった。
「家」はどうか。
これも江戸期には武士または大きな商家は別として、
長屋に住む職人や行商人はまるで関係はなかったはずである。
国家の管理制度として、あるいは、忠君愛国思想というのであろうか
その末端として、家長である父があって、その下に妻があり、
子供達がいて、というもの。明治以降、徐々に、そして昭和に入り
日中戦争から第二次大戦を頂点に、ではあろうが、
国家政策として浸透していった。
ある意味、明治以降の国家建設は国民の意識、思想の変革を
してきた歴史であったのであろう。
明治の文明開化から段々に人々の生活がよくなって、
大正時代になり、大正デモクラシー。
学校教育も浸透し、会社ができて、月給取りが現れる。
江戸期であれば、長屋に住んでいる貧乏人は
大方は奉公に出され、小僧になり手代、番頭となる。
しかし、これも、本人が好べばであり、いやであれば
途中で逃げだし、奉公を転々とし、そのうちに
本人が馴染める職を見つける、、、。
(明治生まれの志ん生師もこの例で、最後は噺家に
たどり着く。池波先生なども大正末の生まれだが、然りで
小学校卒で奉公、最終的には株屋に落ち着いている。)
教育が浸透し親はそうでなくとも、学校を出て月給取りになれば、
またその子には同じ道を歩ませようとする。
よい生活をしたいという欲望も増える、、、。
そんなことの拡大再生産。
敗戦後、焼け跡からの復興、それはもう必死になって、
元に戻そうとしてきた。
そして、さらにアメリカの冷蔵庫があり自動車のある生活を目指し、
高度経済成長まっしぐら。
また、この頃、前に少し書いたが、国内マーケットを均質化するため
東京一極集中、価値観や文化の均質化が国(通産省)によって
なされた。(これによって江戸の価値観はもとより、日本中の
価値観を統一することになったのである。)
この結果が現代なのであろう。
ここまで、ちょっと、勢いで書いてきてしまったが、
いかがであろうか。
そうそう間違ってはいないとは思うのだが、、。
先に、志ん生師、池波先生のことを例に引いたが、
東京でも明治以降、戦前までは(裕福でない家は)小学校を出て
奉公に出るのは昔からの下町では珍しいことではなかった。
そういう意味では、東京で江戸の価値観が本当になくなったのは
戦後、焼け跡後、高度経済成長が始まる昭和30年代なのであろう。
さて。
明治になってからの変化というのは、考え方とすれば
やはり、諸外国に追いつかねばというところが
スタートラインになっている。
つまり『自由』に暮らしていてはいけない。
欧米に追い付けない。そういうことなのか。
では、江戸期、『自由』でよかったのは、なぜか。
鎖国していたから?。
まあ、実際にこれはよくいわれることではあろう。
『自由』ではあったが、それはやっぱりカギカッコ付きの
自由で、同じ国の、同じ言葉が通じる民族の閉じた世界の中での話で
シャカリキにならなくともよかったから、ということになるのか。
なんだか、まだ考え尽くしていないようなので、
来週に、つづく、、。