浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



14年鳥越祭その2

dancyotei2014-06-10

6月7日(土)

引き続き、鳥越祭。

寝すごして、内儀(かみ)さんに起こされた。

あわてて半纏を着て帯を締めて、出る。

半纏。
ハ・ン・テ・ン、で、ある。

お祭のときに着るあれを、なぜだか東京下町では、半纏と呼ぶ。
全国的には、法被(はっぴ)であろう。

由来はいろいろあるようだが、今は半纏も法被も同じものであると
思うのだが、なぜだか半纏なのである。

一般に半纏というと職人や商人が着るうわっぱりで
印半纏(しるしばんてん)などというが、店の印が背中に入り、
襟に名前を入れたり、長かったり短かったり、いろいろだが
着物の上に羽織る。
帯を締める場合もあれば締めない場合もあるが、
神輿を担ぐ場合は帯を締めるのが普通である。

あれを半纏というか法被というかで、
東京下町のお祭を本当に知っている人なのか、そうでないのかが
わかったりするのである。
(東京下町では、法被とは絶対にいわないので、東京下町の者と
祭の話をするときにはご注意を。けっこうこだわりがある
と思われる。)

私が着る半纏はむろん自分の町のものである。

基本、町の揃いの半纏を着ていない者は、神輿を担いではいけない
というのが三社でもどこでも、このあたりの祭では、ルールになっている。

三社などは人気があるので、真偽のほどは定かではないが、
売り買いされる、なんという話も聞いたことがある。

下町の祭は以前はいざ知らず、町に住んでいる町会員だけでは
担ぎ手がとても足りず、成り立たない。
それでどこでも、外から担ぎにきてくれる人々に頼ってもいる。

かといって、誰でもOKということになると、統制も取れない。
そこで外からの人々、同好会などと町では呼んでいるが、
神輿サークルというような会になっている組織の
毎年きまったところに半纏を貸して担いでもらっているのである。

いずれにしても、私などは自分の住んでいる町の半纏を
着て祭に参加するというのは、気分のよいものである。

東京西部の私鉄沿線の新興住宅地で育った私は、小さい頃から、
参加すべき祭というものが住んでいるところには存在しなかったのが
いたく淋しかったのである。

さて。

雨は引き続き降っている。

足元は、素足に雪駄雪駄の裏は本革製なので、あまり濡らすのは
よくないのだがスニーカーを履いていくわけにはいかない。
(担ぎもしないのに格好だけは気をつかったりするわけである。)
ほんとうは、傘をさすのも如何なものかとは思うが、
やはり、冷えてしまうので、ビニール傘。

遅れてしまったが、町内の神輿はすぐそばにいた。

連合渡御といって、近隣の数町が集まって列をなして
このあたりを担ぐわけである。

戻ってきているので、一度、集まってから、
連合渡御が始まったところのようである。

赤い棒のようなものを持っている方々が世話役のようなもので
鳥越では『睦(むつみ)』といっている。
町内会の組織でもあり、鳥越神社の氏子組織でもある。

さすがに合羽を着ている。

町名が入った一対(いっつい)の高張提灯(たかはりじょうちん)が先導。

その後ろに、御幣(ごへい)。


この時間、我が町の神輿の担ぎ手の半部以上は、町内にある
都立白鴎高校の生徒さん。女子もいる。
これは毎年のことである。(なんでも単位になるらしい。)

30分ほど担いだところであろうか。
阿部川町の通りで全神輿が並んで停止。

神輿に提灯を取り付け、火を入れる。

都内で、提灯をつけて担ぐところは他にあったろうか。
おそらく珍しいと思われる。
鳥越は毎年こうである。

土砂降りではないが、雨はずっと降っている。


再び停止。


全町の提灯と睦の役員さんが集まって挨拶があり、手締め三本。
連合渡御終了。

自町に向かって、帰還。

町の神酒所までやっと戻ってきた。

 

担ぎ終わり。

雨の中、ほんとうにお疲れ様でした。

明日は本社神輿の渡御。

早朝の宮出から始まり、各町をつないで担ぎ、最後、神社前の
蔵前橋通りで宮元町会が担ぎ、夜の9時前後、睦代表の方々で
宮入というのが毎年のこと。

これがなんと今年の我が町の順番は、三十なん年ぶりに宮入前の、最後という。
(睦代表の方の説明が聴き取れなかったのだが、この最後の順番には
なにか名前があったようであった。)

むろん、最後というのは引越してきて10年そこそこの
私は経験がない。
我が町は、神社から遥かに離れているのだが、我々が担ぎ終ると、
その後神輿は、どうするのであろうか。
三社などでは、ショートカットのために、トラックで運んでいる
例もあるようだが、やはりそうであろうか。

 

つづく。