浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



上野公園、13年夏 その2

dancyotei2013-08-06


8月3日(土)

今日は昨日のつづき。



上野東照宮前の鳥居の名であった。



これは、この鳥居を奉納した年月日とその人の名前である。



皆さんはこういうものにはあまり目はいかなかろう。
気を付けて読んでみると、意外におもしろい。


一般の神社などであれば、奉納をするのは信仰をしている人、
あるいは氏子で、界隈にどんな店のなんという人がいたのか
というような、当時の生の雰囲気を感じることができる。


しかし、ここは幕府開祖、神君家康公を祀った東照宮
それも江戸府内、幕府お膝元の上野の山である。
そうとうな意味がある。


上の写真、きれいな楷書ではあるがお読みになれるだろうか。



寛永十年癸酉四月十七日 厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」



である。


寛永十年は1633年。
家康が幕府を開いたのがご存知の1603年。
それから30年後。


まあ、江戸初期。


家康を祀った東照宮なので、むろんこの時は家康は既に
この世の人ではなく、二代将軍秀忠も前年の寛永九年に亡くなって、
家光の時代になっている。


そして「厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」。
これで人の名前になる。


つまりこの鳥居を奉納した人、ということになるのだが、
どこで切るのかわからないかもしれない。


厩橋」は、うまやばし、だが、今の群馬県前橋市の古い言い方。


「侍従」は、本来は天皇側(そば)に仕える官職名だが、この頃は
○○守、のように、既に大名などに与えられる名誉職のような
ものになっている。
戦国大名でいえば、秀吉子飼いの福島正則なども侍従で、
福島正則尾張清洲城主だったので、清洲侍従と呼ばれていた。
厩橋侍従だけでも、この人のことを指したということである。)


「酒井」がいわゆる苗字。


雅楽頭」は、うたのかみ、と読み、これも官職。
この人、侍従と雅楽頭と二つの官職を同時に持っていたのである。


「源朝臣」。これは、みなもとのあそん。


聞いたことがあると思われるが、武士は皆、源平藤橘(げんぺいとうきつ)
のどれかを氏(うじ)として名乗ったのだが、この人は源。
朝臣は朝廷の家臣であるという意味。


で、最後の「忠世」(ただよ)が名前である。


長い。


当時の官職を持っている大名などの名前は正式には、
このようなことになる。


この人は、今はさほど有名ではないかもしれないが、
大老までやった幕府大幹部といってよかろう。


また、子孫は代々雅楽頭を名乗り、老中など幕閣幹部の家柄。


そして、徳川譜代大名の中にもなん家かある酒井家のうち
雅楽頭系といわれ、本家は江戸中期以降、姫路藩を領していた。
(落語に「三味線栗毛」という噺があるが
これなどには雅楽頭として実名で登場する。噺の中では
“うたさま”と呼ばれ、(どの“うたさま”かはわからぬが)
庶民からも親近感を持たれていた人もいたようである。)


この鳥居は、今は重要文化財


関東大震災でも倒れなかったという。


さて。


もう一つ、この鳥居にはネット上に次のような半分伝説のような話を
書いているページがいくつかあった。


建てられてしばらく後に、なんらかの理由で、
一度土に埋められていたことがあり、その後、
酒井忠世の孫が掘り出して再建したという。


これには、この酒井忠世という人は晩年に一度
失脚をしていたことがあるのだが、これが関係している
という人もある。


また、孫といえば、嫡孫は下馬将軍といわれ、忠世以上に
幕閣に大権力をふるった忠清のことであるが、別の名前が
いわれており、実際のところはよくわからない。
(ネット上の都市伝説のようである。)


そもそもそんなことがあったかどうか、これも疑問ではある。


さて。


鳥居をくぐってさらに門があり、参道を社殿に向かって歩く。
両側には当時の諸大名から奉納された灯篭が偉い順に並んでいる。
むろん社殿に最も近いところが一番偉い。


お!。


しばらく前まで社殿はシートで覆われてまったく中は見えなかったが
シートが取れている。





(ただまだ工事中のようではある。)



見る影もなく、朽ちる寸前であった改修前の姿を
知っているだけに、これは驚き。
やはり、金キラ。






正確にいうと、これは門で、後ろが社殿。



上野からみれば、ご本家世界遺産日光東照宮
例えば、陽明門、なんというのは、皆さんご存知であろう。


権現造りというようだが、金キラ。
彫刻も細かく、デコラティブ。


やはり、その陽明門の方向である。





今となっては、当時の将軍家にごく近い権現造りのもので、
東京で残っているものは数少ない。これくらいかもしれない。


実はこの上野の山、寛永寺と芝の増上寺には代々の徳川将軍と
将軍御台所の墓があった。すべてではないが、お金のあった
江戸期前半のお墓、霊廟は皆この金キラの権現造りで、
それも一人に対していくつもの社殿が建てられていたのである。
(すべて、上野は上野戦争と第二次大戦で、増上寺は第二次大戦で
焼き尽されている。)


むろん、重要文化財


改修が終わるのが待ち遠しい。




思いがけず、長くなってしまった。



明日もつづく。