さて。
赤坂大歌舞伎『乳房榎』から、その原作である
三遊亭圓朝作、落語としての怪談噺『乳房榎』について、
書いている。
この噺のテーマはなんであろうか。
この問いをもう一度考えてみたい。
前回、テーマはない、と、書いた。
これは、芝居を観ての偽らざる印象であった。
観終わって、なにが残ったか、というと、
早替わりや本物の水を使った演出に対する
驚きである。
見た目の驚きに、ストーリー部分にはあまり
目がいかない。
芝居としてはそういう作りになっている。
しかし、ストーリー自体をもう一度冷静にみてみると
ちゃんとテーマはあったことに気が付いた。
浪江はお関と無理やり関係し、その上、お関を奪うために、
下男の正助に手伝わせ、夫の重信を殺す。
そして、自らお関の夫になる。
その後、正助は子供を抱えて逃げ、自分の故郷、赤塚で育て、
ある程度成長の後、子供の父である重信の仇を討つ助けをする。
正助にとっては旧主人仇を討ったということになる。
ストーリーの作りとすれば、一応のところ、勧善懲悪。
正助、子供からみれば忠と孝ということになる。
ただ、これがあまり伝わってこないのは、
原作の落語も芝居も同様なのだが、前半部分に比べて
最後の仇討に至る部分の描かれ方があまりに薄い、
からなのである。
芝居だと仇討は、大詰の最後の一場のみ。
ただ、これも今回復活させたもののようで、前回の上演では
演じられなかったくらい。
落語の方はというと、速記本の、全編三十六節(せつ)ある内の
最後の一節で済ませている。
なぜこうなっているのか。
観客とすれば、浪江にやられっぱなしで
終わってしまっては、やはり落ち着きどころがない。
そこで一応、仇は打ちましたよ、で終わらせる。
それで、ああよかった、ということになるからなのか。
現代人である我々が現代においてこの芝居を観た場合と、
落語が作られ、芝居が初演された明治から大正にかけてとで
このあたりは多少違っているようにも思われる。
明治の頃であれば、話の構造として、勧善懲悪であり、忠孝に
しておかなければ、社会的にも、聴衆、観客に対しても
受け入れられない、という部分が現代よりもより強かった
のではなかろうか。
しかし、どちらにしても、仇討をさせる効果というのは、
その程度ではなかろうか。
で、やはり、残るのは、浪江の悪と目を驚かせる演出の方。
つまり、作品とすれば、二重構造になっている。
構造的には勧善懲悪、忠孝なのだが、
本当のテーマは、浪江の悪、であることは明らかである。
なぜか。
むろん、悪、の方がおもしろいから。
さて。
ここで、落語にはあるが芝居に入れられていな内容を
書いてみたい。
芝居ではお関は仇討が終わるまで生きている。
(落語では名前が、お関、ではなく、おきせ、という。)
落語では浪江との間に子供もできるが、この子は乳が出ずに
すぐに死んでしまう。その後、おきせは乳房に腫物ができて
悶え苦しみ、ついには重信を暗示させる怪鳥に胸をえぐられ
殺される。(このシーンは、文字で読んでもかなりえぐい。
怪談というよりもホラーである。)
夫である重信を裏切り無理やりとはいえ浪江に身体を許し、夫亡き後、
浪江を夫にし、子供まで産んだことへの重信の祟り。
(女性から見れば理不尽な話だが、噺の中ではそう説明される。)
落語では、忠孝に加えて、夫への貞節を裏切ったことへの
因果応報が加わっているのである。
そして、噺はこのあと仇討になり終わる。
落語の場合、おきせが祟りで死ぬことによって、
全体として、先に述べた、仇討の取って付けた感じは
薄められ、作品としてのまとまり感は上がっている。
さて。
芝居の方ではなく、圓朝作、怪談噺『乳房榎』、結論として
どのように評価されるべきであろうか。
怪談、あるいは怪異譚としてのエンターテイメント性は
決して低くない。おもしろい作品である。
今読んでもある程度はたのしめたし、明治当時、大衆の
人気を博したのはうなづける。
また、今回長い速記を読んでも、芝居ではなく、座布団に座って一人が
演ずることによってのみ生まれる世界観も想像することができ、
改めて、落語という表現手法のすばらしさを感じることができ、
同時にそれを実現している圓朝の表現力の凄さを思い知った。
むろんこれは評価されるべきだと考える。
ただし。
作品の文学的な意味でのテーマはどうなのか。
私などはどうしても圓朝よりも少し前の時代から
生き、作品を産んだ、黙阿弥と比べてしまう。
黙阿弥の『三人吉三』は『乳房榎』よりもさらに複雑な因果を扱っているが、
単なる勧善懲悪、因果応報ものに終わっていない。
『主人公の三人の泥棒は皆、そうとうな悪で、かつ、
それぞれに過去からの因果因縁でがんじがらめになっている。
であるが、最終的に彼らは皆、浄化されていく。
結果的に、悪い人間は一人もいなくなる。』
さらに『因果というものは、欧米的にいえば、運命、ということ
であろう。人はある意味、運命というものからは逃げられない。
かといって、この幕末期、それ以前、江戸の、近世人が信じていた
親の因果が子に報いというようなことは、さすがに、
皆、信じてはいない。運命は運命で受け入れしるかない、と悟って
いる。そういう意味で、既に江戸民は個の確立した、近代人である』
と考えれる。
なにか『乳房榎』は時代が戻っているようではないか。
江戸から明治と時代が進んだが人々の成熟度はむしろ
退化したのではなかろうか。
どうもそんな気がしてしょうがない。
(圓朝は、そんなものを目指していなかったし、
時代が求めてもいなかった、というであろうか。)