浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



二月大歌舞伎 その2

dancyotei2013-02-14

2月9日(土)

さて。



引き続き、二月大歌舞伎。



昨日は、一つ目の『義経千本桜』の道行。


次は『新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)』の
通し。


やはり、作品像全体がわかる、通しのものをちゃんとやってくれるのは
素人にはありがたい(と、思った)。


作は、黙阿弥。初演は明治16年東京市村座。


黙阿弥は明治になっても、私の好きな『天衣紛上野初花(河内山と直侍)』、
昨年勘三郎で観た『梅雨小袖昔八丈(髪結新三)』など
たくさんの作品を残しており、その著名作のうちの一つ。


この外題(タイトル)自体は知らなかったが
通称『魚屋宗五郎』というのは聞いたことがあった。


明治16年市村座というと、まだ、江戸の頃からの
浅草猿若町にあった。明治になって江戸三座は、猿若町から
順に出ていくが、この頃は、守田座新富町へ移転し、新富座
なっているが、中村座市村座はそのまま猿若町に残っていた。



(明治33年(1799年)9月、東京歌舞伎座
新皿屋舗月雨暈 魚屋宗五郎 五代目尾上菊五郎
画・豊斎)



この作品は、黙阿弥が五代目菊五郎にあてて
書いたもの、と、いう。


團菊左時代といわれた頃の五代目菊五郎


世話物、で、ある。


新、と、ついているが“皿屋敷”。
これは、番町だったり、播州だったりの皿屋敷
落語にもあるが、お菊さんが皿を割る、あの怪談ものを
下敷きにしてますよ、ということ。


通し、と銘打っているが、長いからか、幽霊が出てくる場は、
カットされている。このため、怪談ティストはまったくない。


魚屋の宗五郎が主人公。
前半、旗本屋敷に愛妾として奉公に出ていた宗五郎の妹、
お蔦(つた)が、酒乱の主人に無実の罪で切り殺される。


後半部分で宗五郎が真実を知って、断(た)っていた酒を呑み、
その勢いで、その旗本屋敷へ暴れこむ。


ざっと筋を書くと、こんな感じ。


むろん、ドラマチックではあるのだが、
そうそうびっくりするような話ではない。


普通演じられるのは、この後半部分だけとのこと。


通し、というのであれば、カットせずに
幽霊のくだりも演ってほしかったように思う。


実際には、前半部分はお家騒動が背景にあり、
この陰謀を知ってしまったお蔦が、口封じに、主人に
陰謀派が讒言をし、これで殺される。お蔦は真実を明かすために、
幽霊になって出てくる。


この部分がカットされているので、酔って殺す主人の動機も
ちょっと心もとない。


『魚屋宗五郎』として、後半だけを上演するにしても、
例によって、皆が、前半部分を知っており、前半部分を演らなくとも、
後半部分がおもしろいのでそこだけ演りました、で、
通じていたのであろうか。


上演記録を調べてみると、戦後、前半を演っても、
今回と同様に、この幽霊の場面は演じられていないよう。


今までこれでおもしろかったのであろうか。


無実の罪で妹を殺され、酒を呑んで酔った勢いで、
旗本の家に暴れ込む、まあ、いってしまえば、それだけ
の話で、薄っぺらいという印象が強い。


幽霊とお家騒動がきちんと描かれていた原作がどうなのかは
わからない。もしかしたらそれでもダメなのかもしれない。
しかし、黙阿弥の脚本はそんな底の浅いものではないのでは、
という気もする。


国立劇場あたりで、いつか完全版をやるのを待とうか。


さて。


幸四郎はもちろん、主人公の宗五郎。


生世話物らしい、魚屋家族のやりとり。
こういうものは幸四郎先生お得意といってよいのだろう。
安心してたのしめる。


また、見せ場の、酒を呑んで段々に酔っていく場面。
常識人が、呑むほどに、酔うほどに、殺した旗本への怒りが
高まっていく変化を見せる。


落語でも段々に酔っていく、というのが見せ場の噺がある。
例えば『らくだ』『一人酒盛り』。


現代では、こういう設定はあまり聞かないような気もする。
だいたいにおいて酔っ払い、さらには酒乱、なんという
キャラクター自体、あまり描かれない。
なぜであろうか。


わからないのだが、現代人は、昔よりも
酒を呑まなくなったのか。


いや、そんなことはあるまい。


酒も呑むし、酔うのだが、昔のような、例えば、
千鳥足で歩いたり、くだをまいて絡むような、
たちの悪い酔っぱらい方をしなくなっているような
気がする。


それで、いかにも酔っ払い、という演技をすると、
嘘っぽい感じがする?。


落語の場合、先の『らくだ』であれば、酔って腰の低かった男が、
豹変し、相手と立場が入れ替わるくらい、態度がでかくなる。


『一人酒盛り』ではやたら大きな声で笑ったり、
そうとうに、陽気になる。


つまり、実際以上、数倍にデフォルメすることによって、
笑いにもなるし、作品として成立させている。
これは現代の観客を意識すればするほど、先の理由で、
そうする必要があろう。


歌舞伎の舞台で、そこまで演るのは、品がないということに
なるのか。しかし、事実、幸四郎の演技、演出は物足りないと感じたし、
それが作品全体の後味としても、薄く、感じさせた
原因なのかもしれない。


舞台復帰の染五郎は、旗本役。


先のお家騒動のくだりがちゃんと描かれていれば、
もっと登場場面も多く、印象も違ったのかもしれぬが、
こちらも、ただ酔っぱらって愛妾を切ってしまう、
頭の足りない殿様で、存在感が希薄という感じであった。


全体を通していえば、無難にはまとまっていたと思うが、、、。
ちょっと、残念、で、あった。