浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

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市川團十郎のこと その4

dancyotei2013-02-12



團十郎家の芸について。

横道にそれてしまって、それっきり
終わってしまっては、申し訳がないので、
まとめのようなものを、書いてみたい。

團十郎というのは、最初に書いたように、
江戸の元禄の頃、初代が生まれ、現代まで、十二代、
代を重ねてきたわけである。

しかし、まあ、どの家でもそうだが、
完全に血がつながった親子で相続してきたか
といえば、300年もの間である、必ずしも
そんなことはない。

この間、養子であったり、團十郎という名前を
つなげるために、努力がなされてきたわけである。

(1)〜(2)まずは、初代と二代目。
これは親子。

そして、この二代でほぼ、市川宗家の芸、というものが
確立された、といってよいようである。

(3)三代目で既に、養子。
だがこの人は、20代そこそこで、早世。

(4)四代目はそれ以前は二世松本幸四郎を名乗っていた
役者で、芸は評価されていた人というが、二代目團十郎に乞われて
四代目になった。(二代目の姪の夫ともいうが、
二代目との血縁はなかったとみられる。)

この人は、木場の親玉、と呼ばれ劇壇から畏敬されたという。

落語に『中村仲蔵』という噺があるが、これは
この四代目の頃の初代仲蔵の話。“修行講”という
演技研究会を開き、上も下もなく、演技の研鑽に
務めた、という。落語に出てくる、仲蔵の忠臣蔵・定九郎の
新演出はここから出たものらしい。

(5)五代目は四代目の実子。
時代的には、田沼時代から松平定信
寛政の改革の頃で、大田蜀山人やら、立川焉馬など、
江戸文芸サロンといったものが華やかになった頃。

また、この頃から、歌舞伎界は、
團十郎家の家の芸である荒事から、実事と呼ばれる、
後に世話物というジャンルになるが、庶民の生の姿を
リアルに演じるものへと向かい始めていたという。

また、五代目はなかなかユニークな人。
53歳で隠居し、向島に隠宅を構え、
歌舞伎とは距離を置き、専ら、かの狂歌仲間達との
親交の中に暮らしたという。

(6)六代目は五代目の実子だが、
三代目同様、二十二歳という若年で死亡。

(7)七代目は五代目の二女の子。
六代目の早世で、わずか十歳で團十郎襲名。

七代目は、歴代團十郎の中でも、初代、二代目に
並ぶほどの功績を遺しているといってよいのだろう。
また、八代目と合わせて、とても興味深い人生を
送っているので、少し詳しく書いてみる。

江戸の歌舞伎界は、いかに名門市川宗家といえども
名前だけで、客がくるほど甘くはなく、入りがわるければ、
芝居はすぐに休演、という厳しいもの。

そういう意味では七代目は若くして、團十郎を継ぎ、
自らの力で芸を構築してしていかなければならなかった。
先に述べたように、家の芸である荒事から
鶴屋南北の出現もあり、庶民の生の姿を描いた
生世話物に時代は移っており、家の芸とともに、
リアルな表現の追求も行っていかなければならなかった。

そして、彼は今に伝えられている、市川家の家の芸としての
歌舞伎十八番』を定めたのであった。

これは歌舞伎界での市川家の芸として、
独占を宣言するものであった。これはむろん、
家を守るためである。これが天保の頃。

寛政に生まれ、若年で襲名し、安政に68歳で没するまで
当時としては長生きもしているので、文化文政、天保、さらに
幕末と、活躍している時間は長い。

この中で、彼は相当にドラマチックな人生を
送っている。

歌舞伎十八番』を定めたのもそうだが、
今伝わっている『勧進帳』を完成させたのもこの頃。

それこそ、初代の頃から『勧進帳』はあったのだが、
肝である、かの山伏(弁慶)と関守(富樫)の問答(会話)を
能の『安宅』から取り入れた新しい演出にしている。

今も『勧進帳』は松羽目もの、といわれ、背景に
能舞台を象徴する板に松の絵を描いたもの使っているが、
勧進帳』が最初の松羽目ものであるという。
(つまり『勧進帳』も松羽目ものも、さほど古いものではない
ということ。)



(1852年(嘉永5年)五代目市川海老蔵(七代目團十郎
江戸河原崎座 豊国 勧進帳 弁慶
これが七代目。背景が松、で、ある。)

そして、いよいよ、天保の改革による江戸追放ということになる。

天保の改革はご存知の通り、老中水野忠邦による
幕政改革であるが、歌舞伎の江戸三座がすべて、
浅草の北へ移動させられ、様々な規制が掛けられた。

その、まあ、見せしめということであろう。

(8)この当時、既に実子に八代目團十郎は譲って、
海老蔵を名乗っていたが、天保13年(1842年)、
江戸十里四方追放になり、旅回りの役者へ
身を落とすことになったのであった。

この後が、親子ともに激動。

八代目という人は、ナイーブな人であったのであろう。

天保の改革による社会の閉塞感を背景に、八代目は
特に女性から熱狂的な支持を受け、いわば、大スターであった。
(女性のアイドルに対する熱狂的支持というのは、
どうもこのあたりから始まっているようである。)

父は江戸追放、旅回り。
彼自身は、市川宗家の看板と、一門、そして芸を背負った。
芸としては、父、七代目を踏襲するまでで精一杯であった
という評価のようだが、その上に、大スターとしても
振る舞わねばならなかった。

なん度も願い出ていた七代目の赦免は追放から7年後
嘉永2年(1849年)にようやっと、なった。

赦免になり七代目は江戸に戻り、再び舞台に立つが、
一度離れた人気は彼には戻らず、失意の内に再度旅回りに出る。

八代目はその二年後、安政元年(1854年)、夏休みを
利用して、名古屋で芝居を打っていた父のもとを訪ねる。

その後、父の興行について大坂へ移動。
そして、大坂の宿で、突如、自害をしている。(享年32歳。)

当時、様々憶測を呼んだが、実際のところは
今でいう、うつ病のようなものではなかったか、ということ。

七代目はその後、前年より江戸に戻って舞台にも数度立っていたが、
安政6年(1859年)、そのまま江戸で没している。

世情としては、明治直前、井伊大老の大獄が吹き荒れる中。

團十郎家はそれより少し前、天保から歌舞伎界を襲った大嵐に
翻弄されてしまった。

ここから九代目誕生までしばらく團十郎は空席となる。