浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



資生堂パーラー銀座本店

10月3日(水)夜



さて。



今日は仕事仲間と飯を食いに行くことになった。
いくところは、久しぶりの銀座の資生堂パーラー


最近ではNHK文化センターの講座「池波正太郎と下町歩き」でいった。


むろん、池波レシピ。


先生のエッセイ「散歩のとき何か食べたくなって」




の最初に出てくる。


当初薬局として創業した資生堂だが、
パーラーの開店は1902年(明治35年)で、
今年で110年。


東京の洋食やとしても、指折りの老舗、と、
いってよかろう。


銀座七丁目の銀座通り沿い。
交わる通りは花椿通り、という。


今は銀座だが、当時は出雲町。
江戸の頃から銀座は一丁目から四丁目まで。


今の和光の四丁目交差点から南は、尾張町、竹川町、
そして出雲町、さらに南金六町と、新橋まで続いていた。


このあたりを含めた今いう銀座という街は
江戸の頃は大店が軒を連ねていた日本橋などと比べ
金属関係の職人などが多く住み、どちらかといえば、
地味なところであった。


銀座が表舞台に現れたのは明治に入ってから。


1872年(明治5年)の銀座から築地あたりまでを
燃やした銀座大火。


同じ年に日本最初の鉄道が隣の新橋に開業したのに
合わせ、東京の玄関として、焼け野原となった銀座の街は
洋風の火事に強い煉瓦で造られた家の並ぶ街に再開発された。


ここから、東京で最もハイカラな街として
の歴史が始まったといってよかろう。


つまり、銀座の歴史は江戸からではなく、
明治の文明開花とともに始まっている。


池波先生は大正末に浅草で生まれ育ったが、
浅草からすると、江戸の香りのない新進の銀座は
やはり、特別な場所であった。


この資生堂パーラーのビルの裏に広がる
銀座のクラブ街。
これはいわゆる新橋花柳界の後の姿ということになる。
明治から大正にかけ、政界の大立者も含め、通う、
東京一の新橋花柳界であった。
これも今のこのあたりの街の空気を作ってきた背景に
なっている。


さて。


今夜は、雨。


銀座一丁目有楽町線を降りて、傘をさして七丁目まで歩く。


7時半、現地待ち合わせ。


エレベーターで四階まで上がる。
扉が開くと、店員氏が上品に迎えてくれる。
名前をいうと、席に案内してくれる。


座って、やっぱりビール。
ここのはどれも、小瓶。


店員氏が注いでくれるのだが、この注ぎ方が
実に芸術的。


一気にビールグラスに注ぎながら、
泡もきちんとたて、むろんのことまったく
こぼすことなく、こんもりと泡を盛り上げ、
すべてを注ぎ終える。


今日もぴったりと注ぎ終えてくれた。
これを見るだけでも、ここへくる甲斐があるように
思われる。


私の注文は、ここでも決まっている。
ミートクロケットとチキンライス。


この組み合わせは、私の好物なのだが、
同時に池波先生のお好みでもある。


お通し。



ゴルゴンゾーラのキッシュ。


クロケットから。





クロケットはここにはこのミートの他に
勾玉形のクラブ(かに)のものがある。


どちらもうまいのだが、なにがというと、特にこのクリーム。


バターの使っている量が違うのだと思うが、
べら棒に、うまい。
まわりのトマトソースとともに口に入れると、
まさに至福。


上に載っているのは、揚げたパセリ。
こんなものも、うまい。


チキンライスの薬味が届く。





福神漬けにらっきょ、下が玉ねぎのしょうゆ漬け、
そして今時めずらしい、みかん。
みかんは、今時売っているのかわからぬが、
懐かしいあの缶詰のみかんと同じ味。


そして、なんということがないように見えるのだが、
玉ねぎのしょうゆ漬けが、また、絶妙にうまい。


チキンライス。





二人分と思いチキンライスとハヤシライスを
一つづつ頼もうとしたら、年配の店員氏が、
少し、多めになりますよ、とのことで
チキンライス一人前。


取り分けてくれる。


これがまた、うまい。


2100円也。
おそらく、日本一高価なチキンライス、の一つ、
で、あると思われる。
この値段であれば、この味は当たり前?。
いや、それでも高い、と、思われる方もあろうが、
この場所で、この雰囲気、このサービス、そして
この店の歴史、含めたもの。


確かに、二人で食べて十二分な量。


コーヒーをもらって。





お会計は席で。




やはり、この店は、このまま、
このサービス、この味で東京銀座の歴史を
語り伝えていってもらいたい。
そう思わずにはおられない。
そういうところである。







資生堂パーラー