浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



牛込神楽坂・中華料理・蘭亭

dancyotei2012-09-13


今日は、ローカルな話題だが、この夏、よく行った店を一つ。



私が、市谷のオフィスから牛込神楽坂駅へ向かう
帰り道、牛込北町の交差点そば、大久保通り沿いの
細工町にある中華料理や、蘭亭。
この店のこと。


どうであろうか。


私が会社に入って、25年以上になるが、
入った頃にはもう既にあって、昼飯にもよく同僚とともに
食べにきていたところである。


外の看板には昔から、水餃子と坦々麺がうたわれており、
実は、ここのご主人は四川料理を日本へ伝えた
かの陳建民のもとで修行をしたという情報もあったのだが、
店の雰囲気も味からも、我々には昼の定食を食いにいく、
町の中華やという位置付けであった。


さて。


この牛込北町交差点界隈、あるいは、牛込中央通りあたりは
ご存知かどうかわからぬが、フレンチやらイタリアンの
ちょっとした集中地帯になっており、以前は私も盛んに
探検したこともあった。


このあたり、もともとの飲食街の神楽坂からは少し離れており、
それこそ江戸時代からの山手のお屋敷町で
基本は静かなところ、ではある。


そんなこのあたりが、なぜ、フレンチ、イタリアンの
町になったのか。一説ではフランスの外交官が
このあたりに、多く住んでいたから、ともいう。


私自身、足掛け20年以上この町をうろうろしているが
確かに、フランス語を話す子供達をたまに見かけたりはするが
まさか、数十人単位で住んでいるとも思えないので、
それは単なるきっかけにすぎない、のではあろう。


有名どころで、やはり古株、イタリアンのカルミネ、
あるいは、ミシュラン星付きのフレンチ、ル・マンジェ・トゥー。
こういう有名店が出てきて、一軒二軒だったのが、
加速度的に増えていったような気もする。


それにつられて、というのであろうか、
フレンチやイタリアン以外にも、和食、割烹系の店なども
ポツポツとできはじめ、今も店の数は増えている。


そんな界隈なのだが、この蘭亭という中華料理やは
相変わらず、というのか、町の中華やとしての雰囲気のまま
店は続いていたと思っていた。


それが最近であろうか、なにかのTVで取り上げられていた
のを視た記憶があり、仕事帰り、7月のとある暑い夜、
ふっと寄ってみた。


相変わらず、看板もそのままだが、店の中へ入ると、
以前よりも少し小ぎれいになっている様子。


お客も、満席とはいわぬが、そこそこの入り。


料理をしているのは、若いお兄ちゃん。
あ、代替わりをしたのか、で、ある。


メニューも、以前のような定食もあるが、
やはり、四川系のものが目立つ。


先代の息子さんなのか、あるいは、そうでなくとも、
四川系の修行をした人なのか、わからぬが、
以前の感じとは違いそう。


ヱビスの生があるのでもらう。


夜なので、坦々麺でもないか、麻婆豆腐がいいかな。
ちょうど、定食にもなっている。
メニューには辛さ調節できます、と、書いてある。
辛めで、と、頼んでみる。





おお!、これは、力の入った辛さ。
花椒も随分と効いている。


本格四川でも、あまりにも唐辛子が辛すぎたり、
花椒の痺れる辛さが強すぎて、他の味が
よくわからない、というのも、ある。
まあ、我慢大会としてはよいのだが、それだけでは
私など、二度と食べたいとは思えない。


しかし、ここのは、ちょうどよい。


汗も大量にかくが、味もよい。


と、いうことで、このあと、8月、9月に入っても
暑いので、一度は数人で呑みにきたり、を含めて
数回はきている。


“看板”の坦々麺





うまいのだが、いたって、ノーマル。


花椒の香りを付けた油も一緒に出してくれて、
これもかけてみた。


あるいは、辛くして、と、頼むとどんなものになったのか。


もう一つの“看板”水餃子。





この形の水餃子は四川では定番であったか。
うまい。



そして、酸辣湯麺(さんらあたんめん)。





これも、ノーマルにうまい。


おそらく、この店は、以前の蘭亭ではなく、
新しい店、として考えた方がよいのであろう。
とんがってはいないが、町の中華や、というには
その範囲を超えている。


十分に、うまい四川料理やといってよかろう。


それも、ノーマルにうまい四川料理


私にとっては、帰りにちょいと寄れるので
とても重宝でこのままでもよいのだが、
きっと、有名店になるには、なにか
もう一つ、頭一つ抜けたなにかが必要なのであろう。
この界隈、お客の集まるところでは、あるから
そのあたりは、期待できるのではなかろうか。


しかし、ここ先代は、どのような人であったのであろうか。
陳建民先生のお弟子であれば、もっと四川を大きく出した味
でもよかったはず、で、ある。


ただ、30年以上前のこのあたりであれば、
まだフレンチやイタリアンの町にもなっていなかった頃
であろうし、また、バブルよりも前。
そこまで四川を打ち出すと、とても町のお客には
受け入れられなかったような気もする。


それで、人知れず(?)町の中華やになって、
我々、近所の安サラリーマンの昼飯を賄って頂いていた、
そういうことであろうか。