引き続き、平成中村座の昼の部。
昨日は一つ目の『本朝廿思考』。
終わって、幕間にカツサンド。
次は『弥生の花浅草祭』。
これは踊りの幕。
私など、踊り、というだけで、まったく正直のことをいうと、
ともすると瞼が重くなる。
(むろん、これは私が不勉強にして、踊りを知らないから、であるが。)
だが、この踊りは、ちょいと、違う。
外題(タイトル)にある通り、浅草祭、
つまり、浅草の三社祭にちなみ、三社祭を
盛り上げるというのか、花を添えるものになっている。
今年、三社祭は船渡御(ふなとぎょ)斉行(さいこう)
七百年記念ということで、この3月に54年ぶりに神輿を船に載せて
巡行する船渡御が行われ、いわば、記念の年。
そして今年の三社様の本祭りは、再来週末の、
5/18、19、20に、行われる。
昨年、東京下町の祭は震災影響で軒並み中止。
下町に住む者にとっては、とても寂しい夏であった。
私の住む元浅草は三社様の氏子ではなく、隣の
鳥越神社だが、やはり祭はなかった。
このため、皆、今年のお祭りは、待ちに待ったもので、
今からたのしみ、で、ある。
ともあれ。
踊り、で、あった。
『弥生の花浅草祭』。弥生の花、は、桜花のこと。
桜は旧暦のだと3月に咲く、ということになり、
江戸期の三社祭は、桜咲く弥生、つまり旧の三月に行われていた。
神田祭など東京下町の各祭は今はお神輿の祭に
なっているが、江戸期には京都の祇園祭のように、
各町が曳く山車の祭であった。
各山車には様々な故事にちなんだそれぞれ決まった
装飾、主として人形が飾られていた。
『弥生の花浅草祭』はこの三社祭の山車の二体の
人形、武内宿禰(たけのうちのすくね・染五郎)と
神功皇后(じんぐうこうごう・勘九郎)が、
踊り始める、という趣向で始まる。
武内宿禰、神功皇后ともに、日本書紀などに登場する、
人物、で、ある。
武内宿禰と神功皇后の踊りの次は、
早替わりで三社様の祭神で観音様を隅田川から引きあげた
浜成(はまなり)、武成(たけなり)兄弟になり、
観音様の縁起の踊りに続く。
ここからがおもしろい。
突如、天井から降りてきた雲に『悪』と『善』と書かれた
“玉”があり、浜成、武成に乗り移る。二人は
善と悪のお面を付けて、踊る。
善と悪の玉、つまり、善玉、悪玉。
そう、今もいう、善玉悪玉、で、ある。
(これが“善玉悪玉”の語源、ということになろう。)
(初演当時の浮世絵)
この踊りの初演された天保の頃流行していたという、
山東京伝の「心学早染草(しんがくはやぞめぐさ)」の、
人間にある、よい心=“善玉”、悪い心=“悪玉”が
葛藤している、というお話を、踊りにしている。※
(これ、善とは何ぞや?、といった、哲学的な話、ではない。
黄表紙という他愛のない今でいえば、漫画のような
ユーモア小説である。)
これはこの、踊りに出てくる、善玉、悪玉の
焼印を押した叉焼入りの焼売。ちなんで売店で売られていた。
(浅草のラーメンや、よろいや製。)
さらにここから、踊りは、歌舞伎ではお馴染みのキャラ、
善玉は通人(つうじん)に、悪玉は野暮の象徴、
国侍(くにざむらい)に早替わり。
そして最後に、赤い房と白い房の獅子に替り、勘三郎、染五郎が
頭を振って、ダイナミックに頭についた長い房を振り回す舞を見せ、
最後は再び最初の人形の姿に戻り、動かなくなり、幕。
都合4回の早替わり。
お話も四つ、曲も、常磐津、清本、常磐津、長唄と
替っている。(らしい。これも私にはよく聞き取れない。)
バリエーションに富み、これでもか、という演出
と、いってよいのであろう。
ザッツ・エンターテインメント。
が、、、。背景が一般にはほとんどわからなくなっている
今となれば、もったいない演目、といえるかもしれない。
と、いうことで、幕間。
やっぱり、食べたくなり、弁天山美家古の助六鮨も開ける。
お稲荷さんとかんぴょう巻きと、お得意の
薄焼きの玉子焼きを巻いた玉子巻。
さて。
いよいよ、昼の部のメイン。
神明恵和合取組(かみのめぐみわごうとりくみ)
通称、め組の喧嘩(めぐみのけんか)。
ここまでで、1時半。
16時までなので、2時間半と、長丁場。
め組というのは、江戸町火消(鳶・とび)の、め組。
文字通り、め組が喧嘩をする、という話。
相手は、というと、相撲取り。
まあ、いってしまえば、それだけの話なのであるが、
これは、1805年(文化2年)、芝神明宮境内で起きた
実話をもとに明治になって創られたもの。
実際には、実話の方がおもしろい。
一度、NHKの『講座』で書いている。
その部分だけ、引用する。
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どんな事件かというと、当時、神明様の境内で
行なわれていた相撲が発端。「め組」の者が友達を連れて
相撲を見にきた。め組の者は、このあたりが管轄の
鳶(町火消し)であったため、木戸御免、つまり、
入場無料で、入れたという。しかし、その友達は、
「め組」の者ではなく、彼はだめだ、と、木戸でもめた。
これが原因で、相撲取りと「め組」の鳶で大喧嘩になった。
最終的には、寺社奉行所と、町奉行所の与力同心が
出動し、納めた。(相撲は寺社、町火消しは、町奉行所の
支配であったため、両方の出動になったという。)
双方への処分は比較的軽いものであったらしい。
しかし、おもしろいのは、「め組」の半鐘が、処分として、
遠島になったという。これは、騒ぎの中、め組の者が、
半鐘を打った。それで、半鐘も処分という。
半鐘を打った者は江戸からの追放。半鐘は遠島。
つまり、半鐘の方が、重い刑。
まあ、そもそも、半鐘を島流しにするのも、妙な話。
これは、鳶への配慮ではないか、ということ。
(江戸中の鳶から反発があることをおそれたのか。)
むろん、半鐘は自然に鳴るわけはないが、
ある種、鳶にとっては、粋なはからい、ということ。
この「め組」の半鐘は、明治になり、戻され、
今でもこの神明様に保管されており、お祭りの時には
一般に公開される。
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長くなった、今日はここまで。
また明日。
※山東京伝の「心学早染草」は実際には、寛政2年(1790年)刊行で
『弥生の花浅草祭』が初演された天保3年(1832年)の40年以上も前で
時代が合わない。実際には踊りは、『弥生の花浅草祭』よりも前の、
文化8年(1811年)に『悪玉踊り』として初演されている。
このため、善玉悪玉のコンセプトは、天保期にいきなり流行ったのではない
と思われ、むしろ既に定番化していたのかもしれない。