12月18日(日)第一食
さて。
おでん、で、ある。
寒くなってきたので、おでんには絶好、で、ある。
そして、これに、夜ならば菊正宗の燗酒。
火鉢にかけた鉄瓶で燗をつける。
よいもの、で、ある。
これは、いつ作ったんだっけ。
先週の月曜か、火曜。
忘れたが、いずれにしても、ウイークデーであった。
冷飯をレンジで温め、漬物は少し前からある、
京都の柴漬け。
おでん定食、で、ある。
右からつみれ、ちくわぶ、すじ、焼豆腐。
この写真にはないが、大根も入れており、
よく味が染みていた。
ウイークデーにおでんというのは、煮込む時間を考えると
味が染み込むのかどうか、無謀のようだが
意外にも、30分程度で、そこそこ食べられるものになった。
むろん、4〜5日経った、今日の方が、よく染みてはいたが。
どうしたのかというと、圧力鍋、で、ある。
が、と、いっても、め一杯圧力をかけたわけではない。
おでんに、め一杯圧力をかけてしまうと、大根などはまだいいが、
さつま揚げなど柔らかいものは、スが入ったようになってしまう。
圧力鍋の機構によって、できないものもあると思われるが、
ふたを、完全に密封させないが、閉じた状態というのに、してみた。
つまり、これで、弱めに圧がかかった状態で煮ることができた
のである。
これだけで、早く煮える。
また、前にも書いているが、圧力鍋は厚みがあり、
冷めにくいというのか、熱効率もよいようで、
これも役立っているようである。
さて。
おでんというもの、皆さんはどんなものを
思い浮かべられようか。
今、一般的には、コンビニのもの、で、あろうか。
冬どころか、今や通年、置いている。
あのコンビニのおでんは、ご存知のように
澄んだつゆ、で、ある。
これに対して、私の作るおでんは、
上の写真のような、しょうゆがしっかり
染みたもの。
これが東京の伝統的なおでんといってよかろう。
以前にも少し調べてみたことがあるのだが、
おでんというのは、もともとは江戸・東京で
生まれた食い物、で、ある。
時期は、江戸末では、ということ。
おでん、というのは、豆腐などを焼いて
味噌をつけて食べる、田楽がもと。
ここから、しょうゆで煮込んだ今のおでんの
原形ができたといわれている。
このため、今はおでんにあまり入れないが、芋、
この場合は田楽では一般的であった、里芋、なども
入れたものである。
落語、替わり目などにも出てくるが、おそらく、
屋台や、担いで売って歩いたものであったと思われる。
これが、明治になり、関西などにも伝わった。
大阪などでは、おでんのことを関東炊き、などというが
これはそういうこと、で、ある。
森繁久彌が出演(で)ていた映画、夫婦善哉などには、
この大阪の関東炊きの店が出てくる。
大阪でも呑み屋の一業態として一般的なものになっていった
ようである。
そして、それが、関東大震災前後から昭和の初め、
改めて、東京に入ってきた。
東京の和食の飲食店の歴史をみていくと、
この震災前後というのは一つのターニングポイントで
あったようである。
東京には、江戸から続く、江戸料理の伝統が
あった。前にも触れた、料亭八百善などはその代表。
しかし、震災後、関西から京料理を頂点とする
料理屋が東京に進出し、東京にあった江戸の料理は
そのほとんどが彼らに駆逐されてしまった。
(原因は、色々あろうが、やはり、煎じ詰めれば、
京料理の方がうまかった、からであろう。)
この時に、関西へいって関東炊きになったおでんも、
再び東京に戻ってきたようなのである。
その代表は浅草にあるおでんやの老舗、大多福
で、あろう。ここは大正四年創業。
ここ以外にもなん軒かあるが、東京の老舗のおでんやでも
関西風の澄んだ出汁という店があるのは、
そういうことのようである。
だが、もともとの、しょうゆできっちり煮〆た、
純東京風のおでんやも、少ないながら、東京には残っている。
日本橋、新橋などにある、お多幸。
お多幸のおでんを初めて見る人は、
その色の黒さに、仰天する。
(だが、以前に、大阪出身の人間に食わせたが、
これはこれで、別のものとして、うまいもの、
と感じていたようではある。)
関西風の澄んだおでんを否定するつもりは
さらさらない。
しかし、東京のおでんは、こういうもの
なのである。
これが食文化、というもの。
(東京のおでんは、しょうゆの煮しめ、なのである。)
品がないといわれようが、よい。
しょうゆで煮〆た味が、東京の伝統的な味。
ある意味、私には、あの黒い色が東京人アイデンティティーと
いえなくもない、とまで思うのである。
現代において、東京の街で、東京風のおでんをほとんど
見かけないのは、やはり、東京に育ったものとして、
寂しい。