浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



神田須田町・鳥すきやき・ぼたん その1

10月29日(土)夜



土曜日。



だいぶ、秋らしい気候になってきた。


このくらいになってくると、
そろそろ温かいものが食べたくなる。


内儀(かみ)さんは和食がよいという。
和食で温かい、といえば、鍋。


おでん、というのもあるが、
土曜日わざわざ食べに行くほどのものでもない、か。


そこで、思い付いたのは、神田須田町
鳥すきやきのぼたん


神田須須田町といえば、いわずと知れた、
万世橋駅前で戦災でも焼け残った、
戦前からの飲食店が並んでいる街。


今年1月の『講座』でもいった。


ここは須田町でも、あの三角形の一画は、
昔の町名、連雀町といった方がよいかもしれない。


老舗は、こんなところ。


かんだやぶそば/1880年明治13年)、喫茶ショパン/1933年(昭和8年)、
洋食松栄亭/1907年(明治40年)、甘味竹むら/1930年(昭和5年)、
いせ源/1830年天保元年)(都指定歴史的建造物)、
近江屋洋菓子店/1884年明治17年)、志乃多寿司/1902年(明治35年
蕎麦神田まつや/1884年明治17年)。


並べてみると、ぼたんを入れて、都合、九軒。
この狭い一画に、これだけの数の店が残っているのは、
東京下町でも稀有なところである。


飲食店だけでなく、街並みも残っていれば、とも思うが、
それはもう、今となれば、いってもしかたがないか。
いや、この2011年に残っている方が、へんかもしれない。


同じように、当時の盛り場で戦災で焼け残った
人形町も、この10年、15年でほぼその気配は、
なくなっている。


ぼたんの創業は1897年(明治30年)頃。
建物は、震災後のもので、都指定歴史的建造物。
そして、ここは池波レシピでもある。



『株屋にいたころ、僚友井上留吉とわたしは、


神田や上野の寄席へ行く前に、よく、この〔ぼたん〕


へきて鳥鍋を食べたものだ。』



「食卓の情景」新潮文庫


そこは池波青年のこと、寄席だけでなく、
かの吉原などへも繰り込んだのではなかろうか。
当時“池波の兄ィ”は儲けた金を、ポーンと、とある楼(みせ)に
預けておき、通っていた、という。


よい時代ということなのか。


いや、実際には大正12年生まれの池波先生の
ハイティーンの頃といえば、太平洋戦争開戦直前であろう。
(先生の18歳が1941年である。)
そうそうよい時代ではなかったのか。
先生が特別であったのか。
どうなのであろうか。


私の親父は昭和2年生まれ。


そう、先頃亡くなられた、ドクトルマンボウこと、
北杜夫先生も昭和2年の同い年であった。


池波先生よりも3つ下だが、この年代でこの頃、
進学していれば(中学から旧制高校の)学生で、
北杜夫先生は、松本高校生で、死んだうちの親父は、
陸軍士官学校へいっていた。


環境によって、どんな生活を送っていたかは、
まるで違うことはいうまでもなかろう。
小学校を出てすぐに社会へ出ていた
池波先生とは、自ずから比較はできない。


しかし、北杜夫先生が書かれたエッセイや、
生前私の親父の話していたことを思い出しても
むろん、戦争の足音は様々なところで、少しずつ、
庶民の生活に影は落としていたのであろうが、
実際に開戦後、戦局が悪化するまでは、意外に平静で、
東京でも池波先生の送っていたこんな生活も
まだまだ許されていたのかもしれない。


まあ、ともかくも、羨ましい。


さて。


私は、隣のあんこう鍋のいせ源へは、よくきていたのだが、
ぼたんへは、今年の2月が初めて。


どういうことかというと、たかが、といってはなんだが、鶏の鍋で、
一人前7000円は、随分と高い、と思っていたのである。
しかし、きてみたら、なんのなんの、味だけではなく、
気分のよい店に、十二分にその価値があり、と感じ、
一気にファンになったのであった。


この店。
二人くらいの少人数では予約は取らない。


私の知っている範囲でも、南千住のうなぎの尾花、
森下の桜鍋、みの家、そして隣のいせ源などもそうだが、
東京の、入れ込みの座敷で気取らない店は、
昔からそうだったのであろう。


そんなわけで、6時すぎ、内儀さんとぶらぶら、出る。


着物でも着ようかとも思ったが、今日は
面倒になりやめた。コットンパンツにセーター。


稲荷町まで歩き、銀座線、神田駅まで。
後ろから降りて、天井の低い地下道を歩き、
地上に出る。


出たところは須田町交差点で、右には
万惣フルーツパーラー。


万惣も池波レシピで、先生はホットケーキ。


万惣は元は、青果、果物店で、なん度か書いているが、
神田のこのあたりが、関東大震災まで青物市場、
やっちゃばであったことの名残。
(もう少し細かく書くと、昭和通りの西側の多町あたりが青物、
野菜で、東側のこのあたりは、果物を扱う問屋が集まっており、
野菜と果物は分かれていた。)


交差点を渡り、靖国通りを西に歩き、蕎麦のまつや前。
まつやの右の細い路地を入って左側が、ぼたんの玄関。


あたりは、もう真っ暗。


格子を開けて入ると、紺の半纏をひっかけた下足のおじさん。


二人、といって、上がる。


上がってすぐ左の小部屋で、少々お待ちを、と、おじさん。


待つほどのこともなく、
入ってすぐ左の座敷へ、案内される。


大きな部屋で、入れ込み。





小さなお膳が並んでいる。


座って、お姐さんにビールを頼む。


ここは、鶏の鍋以外には、選択肢はないので、
飲み物以外は、ぐずぐず聞かないで、
どんどんと、ポンポンと、鍋の準備が始まる。


こういうところも、東京下町流、というのか、
気持ちがよい。






明日につづく。






ぐるなび




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