浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き 9月 その2

9月17日(土)



9月の『講座』、人形町



昨日は、浜町駅集合で、明治座のこと。



明治・大正期の明治座はもっと今の人形町寄り、
今は埋められてしまっているが浜町掘沿い、
人形町交差点に近いところにあり(下の明治の地図参照)、
歌舞伎座と覇を競うほどの、歌舞伎の劇場、
で、あったということ。


これは、人形町の街の歴史に関わること、なので、
ちょいと、憶えておいていただきたい。







さて。



明治座、浜町公園の前は、清洲橋通り



渡ると、甘酒横丁に入るが、
この清洲橋通り沿いに、湊屋絵草子店というのがある。


竹久夢二の作品を扱っている店。
ちょいと、外からのぞいて、甘酒横丁に入る。


入って、一本目の路地の先。


浜町藪


11時すぎのこの時間はまだ店は開いていない。
店前で皆さんに説明。


一つ先は、真ん中に緑地というのか、緑道というのか、
がある、浜町掘跡の通りだが、また、ここには戻ってくるとして、
Uターン、清洲橋へ向かう。


藪そばの脇を入り、真っ直ぐ。
大きな通りに出るが、これは、新大橋通り
新大橋通りを新大橋側へ歩き、清洲橋通りとの交差点。
これを右に曲がる。


この両側、再開発されたタワーがそびえる。


清洲橋通りを真っ直ぐいくと、上に首都高が
走っている。


この、今、首都高が走っているところが、
以前は堀。
その前は、隅田川


上の、江戸の地図をご覧いただきたい。


下の方に、緑色の草地のようなところ、
中州、というのがある。


このあたり、江戸の頃は、中州というくらいで、
文字通り、隅田川の中州であった。


また、その、中州の左側に三ツマタ、とあるが、
ここは隅田川が三つに分かれており、三つ又と
俗称されていた。


江戸の頃、一度この中洲は埋め立てられ、町となった
ことがあるのだが、これによって、上流で洪水が頻発し、
また、新開地は岡場所になるなどし、再び、中州に
戻された経緯があったようである。


これが明治になり、再び埋め立てられ、日本橋中州という
町になったのである。
(後述するが、浜町、人形町芳町)に隣接した
ここも当時中州という花街になっていたようである。)


首都高をくぐると、左側に金毘羅様がある。
石の囲いに刻まれた赤い文字は、浜町や、中州の名の入った
料理屋の名前が見え、元花街の痕跡が感じられる。


この先、すぐに、清洲橋
右手側の袂に石原都知事名の、重要文化財のプレートが
つけられている。
なん度か書いているが、隅田川の橋の内、国の重要文化財
勝鬨橋永代橋と、もう一つが、この清洲橋


この前は、深川側、万年橋や、三十間堀の角にある
芭蕉像から見たりした。


こちらからの眺めよりは、やはり、向こう、
深川側からの方が視野が開けており、よい。


あの時も書いたが、大正時代の、関東大震災後の
復興事業として建設された。
その時、清洲橋は一つ下流永代橋と対(つい)に考え
男性的な永代橋に対して、女性的な優美なデザインに
した、という。


この清洲橋から、今、永代橋は、間にもう1本
隅田川大橋というのがあって、
残念ながら、直(じか)には見えない。


だが、風もあり、隅田川の眺めもまずまずで、
気持ちがよい。


しばらく休み、再び、甘酒横丁を目指して、
引き返す。


新大橋通りまで戻り、今度は、浜町掘跡の
緑地を通り、戻ってくる。


この緑地の甘酒横丁側の入口には、歌舞伎十八番
弁慶の像と、冠木門、が、ある。
説明書きには、江戸の頃、芝居町であったことに
ちなむ、と、してある。


さて。


甘酒横丁。


ここで、一度、明治の頃のこのあたりの地図を
出しておこう。







甘酒横丁というのは、明治の頃なのか、
その起源はよくわからぬ。
横丁の入り口に尾張屋という甘酒屋があったから、
と、いわれているようである。



地図の甘酒横丁らしきところに、名前を入れてみた。





と、いったところで、
ちょいと、途中ではあるが、長くなった。



甘酒横丁のことは、明日のことにしようか。