浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き2月 その4

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NHK文化センター、断腸亭の『池波正太郎と下町歩き』


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NHK文化センター

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江戸の地図



引続き、『講座』の2月。



昨日は、住吉神社、佃祭について。


住吉神社にお参りし、境内から、
表参道側、隅田川側へ向かう。


すぐに堤防に、ぶつかる。


昔は、ここから、神輿が海へ入っていた、のであろうか。


右に、石川島へ渡る、石川島小橋がある。
皆で、これを渡る。


渡ったすぐのところに、小高い石垣があり、その上に、
小っちゃな、櫓(やぐら)のようなものが建っている。


これは、石川島灯台跡。
1866年(慶応2年)、人足寄場奉行により建てられたもの。
現在のものはむろんレプリカ。


ここへ上がると、眺めがいい。
今歩いてきた、佃島の町並み、隅田川と、佃大橋、
その向こうに、明石町、聖路加タワー。


こちら、佃掘をへだてた、石川島は、
今は、ご存知のように、大川端リバシティー。
公団の、高層マンションが建っている。
(私も、応募したことがあったっけ。)


高層マンション群になる前は、石川島播磨の
造船所。


その前は、、、?


そう。


石川島の人足寄場。


人足寄場、といえば、ご存知、火附盗賊改方であり、
御先手組の組頭である、長谷川平蔵、で、ある。


そもそも、石川島は、江戸初期には既にあった、
隅田川河口の三角州。


江戸初期、幕府御船手頭であった石川八郎座衛門に
与えたことから、石川島の名前がついている。
(佃の漁師達は、初期はその石川の屋敷に住まい、
その後、南隣の浅瀬を埋め立てて、
佃島へ引き移っている。)


さて、その人足寄場のこと。


1790年(寛政2年)、御先手組火附盗賊盗賊改方長谷川平蔵
当時の老中松平定信へ献策し、江戸府内を徘徊し治安を
悪化させている無宿者の保護・授産を目的に人足寄場が設けられ、
平蔵は加役方人足寄場主任としてその風俗矯正にあたらしめた。


これは、当時としては画期的なものであった。
現代では、いわゆる、懲役、という、仕事をさせ
技術を身に着けさせるというものになっているが、
江戸の頃に既に、こうしたものを始めたのである。
長谷川平蔵の発想には、まったくもって、
“端倪(たんげい)すべからざるもの”が
あったといえよう。


寄場には三奉行及び火附盗賊盗賊改方の取計らった罪人の内、
罪科の軽い者を人足として留め置いて使役させた。


寄場には細工小屋があり、大工、建具、指物塗師など
手に職のある者には各自に手工を営ませ、手業のない者には
元結こき、籠つくり、紙漉きなどの仕事を与え、
また、米つき、油しぼり、藁細工、炭団(たどん)の
製造などの仕事に従事させた。(収容期間は3年間。)


また、中でも絞り油は実際に江戸の町民の生活にも
大いに役立ったという。


当時の油は照明用の燈(とも)し油。
燈し油は必需品だが高価なもので米に次いで物価の基準とされた。
油相場が高騰した折には寄場製の燈油が江戸市中に販売されたという。


人足寄場は明治になり廃止されたが、引き続いて、懲役場、
監獄署となったが、明治21年巣鴨へ移転している。
巣鴨とは、巣鴨監獄、戦後の巣鴨プリズン、で、ある。)


石川島といえば、もう一つ。
造船所。社名になってもいる、造船会社であり、
重工業、プラント会社の石川島播磨重工業
現IHI、で、ある。


ここは、現在のIHI(旧石川島播磨重工業)創業の地。


石川島造船所は1853年(嘉永6年)、ペリー来航の年、
国防の必要から、幕府は大船建造の禁制を解き、
各藩に軍艦の建造を勧めるとともに
石川島に軍艦製造所を作ったのが、始め、で、ある。
(予(かね)てより軍艦建造の建議を立てていた徳川斉昭に命じ、
実務は水戸藩。)


最初の洋式軍艦(帆船)、旭日丸が完成したのは
6年後の1858年(安政3年)。
だが、旭日丸は設計も稚拙で満足に操船することも
できなかったという。


その後、1864年(元治元年)、最初の蒸気機関を持つ軍艦、
千代田を建造した。この千代田は、幕末、戊辰戦争、その後の
函館戦争にも参戦している。よく名前が出てくるので、
私も聞いたことがあった。
(千代田は各戦でも、沈没することもなく、生き残り、
その後、明治新政府のものとなり、海軍の練習艦として使われた。
そして、明治21年に除籍、千葉県所有となり、さらに、
日本水産に貸与されたという。〜wikipedia 
まさに、激動の時代だが、千代田という船は、
この中を、随分と長生きをしたもの、で、ある。)


幕府が倒れ、造船所も明治政府のものとなり、
海軍省の石川島製造所となった。
しかし、都心部で軍艦建造をすることは
対外的にも軍事上もよろしくないということで
横須賀を本拠とすることになった。


1876年(明治9年)明治政府は、民間造船業発展を企図し、
石川島造船所は払い下げられ石川島平野造船所として設立された。
これが現IHIの創業となったのである。


そんなことで、石川島を後にし、再び、佃へ。


この隅田川沿いに、佃煮御三家、などと呼ぶ人もいるようだが、
佃源田中屋、天安、丸久の、三軒の佃煮屋が、ある。


佃煮は、小魚などを日持ちさせるため、
甘辛く煮たもの。
名前の通り、漁師の島、佃発祥。


佃大橋の方へ歩いてくると、佃島渡船、の、碑がある。
これは、渡し船、佃の渡しの跡、で、あるが、
渡船があった頃から、この碑は、ここにあった。


堤防沿いに、佃煮の煮える、うまそうな匂いを
かぎながら、佃大橋までくる。


階段を上がり、佃大橋。
ここから、隅田川を渡り、対岸の明石町へ。