浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き1月 その10

dancyotei2011-01-27

池波正太郎と下町歩き1月 その10


10回目になった『講座』の1月。
今日は、読み切りに到達するか。






より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き1月 内神田 を表示


江戸の地図



さて。



万世橋から、再び、中央通りを戻り、右に入る。
次の信号。
この右手前角あたりが、昨日述べた、広瀬中佐像が
あったあたりかと思われる。


これを右に曲がる。


右側、中央線の高架までの三角地帯は、
今は、JR東日本がビルでも建てるのか、工事中。


道なりにいくと、歩道の右側は煉瓦の高架壁になる。


ここに、御成道の案内板がある。
この、現万世橋と、昌平橋の間、気持ち、昌平橋寄りの
場所が筋違(すじかい)御門と筋違橋のあったあたり。


・御成(街)道
筋違御門、筋違橋があり将軍の上野寛永寺御成り時に
通ったので御成道と呼ばれた。今の万世橋よりも随分と
昌平橋寄りであったことがわかる。


江戸の地図、を、見ていただくと、筋違御門の前は
大きな広場、火除地で、いわゆる将軍御成りの通り道は
青山下野守屋敷の西側を通り、ここから筋違御門を
抜けていたようである。


ここから、やっと、須田町のいせ源やら、やぶそばやらある
三角地帯に入る。


須田町というよりは、旧連雀(れんじゃく)町といった方が
適当かもしれぬ。


・神田連雀町(須田町一丁目)
現須田町1丁目付近は、江戸期から大正期まで連雀町と呼ばれていた。
連雀とは行商人が荷物を背負う道具のことで、
行商人そのもののことを指す言葉でもあった。
江戸初期、神田職人町のはずれになるこのあたりは
そうした行商人達や連雀を商う者を集めて住まわせた町であった。


調べていて、江戸初期、ちょいとおもしろいことに
いき当たった。


このあたり、「丹前」誕生の地、なのである。
「丹前」とは、ご存知の着物の丹前のこと。


江戸初期、具体的には、明暦の大火の前。
このあたり、上の、江戸の地図とは、多少異なっている。


その頃は、筋違御門前に堀丹後守の屋敷があり、
その前に紀伊国屋という湯女(ゆな)風呂があったという。


湯女風呂というのは、ご存知であろうか。
安土桃山、豊織期、上方で始まった風呂屋である。
風呂、といっても、この頃は、まだ、湯船のある風呂ではなく、
蒸し風呂、サウナ、で、ある。
で、ただの風呂ではなく、湯女という女性が垢すり、なんぞ
をしてくれて、まあ、ご想像の通り、それ以上の
“サービス”も、してくれた、サービス業であった。


で、その堀丹後守屋敷前にあった湯女風呂は、
俗に「丹前風呂」と、呼ばれていた。
丹後守屋敷“前”、なので、丹“前”。洒落、である。


そこに勝山という湯女がおり、たいそう人気で、
勝山は派手な姿形が評判で、あったという。
ちょうど、水野十郎左衛門、幡随院長兵衛、
旗本奴、町奴の時代。池波作品であれば『侠客』の頃。
(読んだことのない方は、是非ご一読を。)


勝山の派手な衣装というのは、当時の旗本奴の衣装である。
彼らは、暇を持て余し、派手な格好で、江戸の町を
のし歩いていた。戦国からの遺風、カブキモノ、と、
いったところである。


で、それが、派手な縞柄の綿入れ。


そう!。


「丹前風呂」の湯女、勝山がこれを着ていた。
これが着物の“丹前”となった、というのである。


また勝山の結った勝山髷も流行し、後の丸髷のもとに
なっているという。勝山はその後、どうしたかというと、
取締にあい、(元)吉原へ送られたが
やはり人気を得、吉原でも太夫にまでなったという。


で、その後の連雀町


明暦の大火後、火除け地になり、町が若干縮小され、
南に下げられ、さらに、それまで、連雀を作ったり、
商ったりする者達はこんな町中でなくともよいだろうと、
なんと、今の三鷹の在に代地を与えられて、
追いやられてしまった。それが、今の、
三鷹市上下ある連雀である、ということである。


その後の連雀町は、青果市場、果物市場の一部として
江戸期にはあり、明治以降は、神田市場に隣接し、
もともと交通の要衝であったことに加え、昨日述べたように、
市電の複数の線が集まるターミナルにもなっていった。


明治末、万世橋駅開業とともにさらに駅前として、
繁華街となった。
その後、万世橋駅はなくなったが、第二次大戦でも
このあたりは焼け残り、昭和初期の町並みと老舗の飲食店が
残った、と、いうわけである。
(バブル以後、その、看板建築のあった
昭和初期の町並みも、老舗以外は、ほとんど、
ビルになってしまったが。)


一軒、一軒に触れていると、さらに長くなるので、
簡単に、創業年だけをを書き出してみよう。


かんだやぶそば/1880年明治13年)、喫茶ショパン/1933年(昭和8年)、
洋食松栄亭/1907年(明治40年)、甘味竹むら/1930年(昭和5年)、
鳥すきやきぼたん/1897年(明治30年)頃(都指定歴史的建造物)、
近江屋洋菓子店/1884年明治17年)、志乃多寿司/1902年(明治35年
蕎麦神田まつや/1884年明治17年)、のそれぞれ創業。


ちょいとだけ付け加えると、近江屋洋菓子店のこと。
洋菓子店ながら明治初期の創業。ちょっと、異色かもしれない。
ここも、万惣同様、須田町の果物市場との関連が深いようで、
今でも、大田市場から、直にものを入れているという。
(アップルパイが看板。)


さらに、これに加え、山本歯科医院(現代の地図参照)、
1928年(昭和3年)の建築で、国指定有形文化財である。


やっとこさ、たどり着いた、あんこう鍋、いせ源


表の玄関から入る。


むろん、予約をしているので、下足の小父さんに
話して、上がる。


二階の奥。



ほぼ、一間、貸切状態。


いせ源は1830年天保元年)創業。
江戸期創業は、この界隈では、ここだけで、
最古参。


戦災にも焼け残った昭和5年建築の建物(都歴史的建造物)、
座敷とともに、東京風のしょうゆ味の
あんこう鍋が看板である。


あんこう鍋というのは、食べつけたら、


それこそ「たまらない・・・・・」ものだそうな。


それほどに熱中していない私だが、


酒にあんこうはよいと思う。』(食卓の情景)



食卓の情景 (新潮文庫)



と、池波先生は書かれている。


寒い外を、1時間半、歩いてきた我々には、
温かい座敷と、鍋のガスコンロがなにより。


お通しが出て、あん肝、




煮凝り。





どれも、うまい。


そして、鍋。





鍋とくると、やはり、燗酒、で、ある。


鍋の味は甘辛。
いわゆる、鍋、と、いうよりは、
甘辛の割り下で、すき焼きに近いもの、
と、いった方が正しかろう。
軍鶏鍋、などもそうだが、古い江戸・東京下町の
鍋、と、いえば、ほとんどが、この味、で、ある。


で、この濃いしょうゆ味に合うのは、
やっぱり、辛口の菊正宗。
ここも、菊正宗。



から揚げ。



あん肝と身を一緒に和えた、とも酢和え。





酒が進むこと夥(おびた)しい。


おじや。





東京では、雑炊ではなく、おじや。



腹も一杯、いい気分。




皆様、お楽しみいただけたであろうか。


内神田と、あんこう鍋、いせ源。
これにて、一巻の読み切り、で、ある。



お疲れ様でした。





いせ源


千代田区神田須田町1丁目11番地1
03(3251)1229