浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

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池波正太郎と下町歩き1月 その7

dancyotei2011-01-24

池波正太郎と下町歩き1月 その7




引き続きいて『講座』の1月。




より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き1月 内神田 を表示

江戸の地図





岩本町、お玉が池から、再び中央通りに戻ってきた。

この角にある、きくかわ
という、うなぎやはこの前いった。


中央通りを向こう側に渡る。


これを入ったところが、神田多町二丁目。
町名表示板も左側にある。


多町は、タマチではなく、タチョウ、と、読む。
ちょっと、おもしろいのは、現在の住居表示では
神田多町というのは一丁目はなく、この二丁目しかない。


江戸の頃の地図を見ていただくと、江戸の頃は、
この南側は、多町一丁目で、北側が二丁目。
だが、今、この区域は、両方合わせて、多町二丁目。


ちょっと、不思議。
歴史を見ると、明治の頃は江戸同様の区割りで
多町一丁目と二丁目。その後に、そのさらに南側、
竪大工町やらが、一度、多町一丁目となり、
それまでの多町一、二丁目が、多町二丁目になっている時期がある。
さらに、その後、その多町一丁目は、内神田三丁目と、
今の住居表示になっている。
神田多町二丁目といえば、神田青果市場発祥の地。
傍目(はため)には、多町だけ残せばよかったように思うが
この二丁目、にも、ところの方々は、計り知れない、
思い入れがあったのかもしれない。
それで、一丁目だけ切り離されて、多町二丁目で、残った。
そういうことではなかろうか。


さて。
そんなところで、神田青物市場の歴史をみていこう。


多町の由来は、田を埋め立ててできた、田町、であろう。


江戸初期、鎌倉河岸の水運から魚の市ができ、
同時に青物、材木、茅などが集まる街であった。


その後の神田川の開削もあり、北部からも物資が
入れられるようになった。


ちょっと、余談であるが、青物市場は昔から、
ご存知のように、ヤッチャバ、といわれてきた。
この由来のこと。


セリの掛け声が、やっちゃ、やっちゃ、
と聞こえるという説もある。


神田青果市場の場合、ものによって、江戸の頃から
セリをするものもあったようだが、すべてのものを
セリをするようになったのは秋葉原移転後のことで、
ヤッチャバの由来というのは、どうも、定かではない。


さて。


神田市場の立地のこと。


江戸の地図を見ていただきたい。
北の方、筋違(すじかい)御門、というのがある。
この前が、広い火除け地になっており、八小路などと
呼ばれていた。


ここは上野に向かう御成(街)道、そして、昌平橋もあり、
神田川の水運とともに交通の要衝で
物資が集まるには好都合であったのである。


集荷経路は、江戸近郊の練馬、三河島などから大根を馬につけ、
また、神田川沿いの柳原河岸などには、葛西、砂村方面から舟で運ばれ、
また、南側の外濠の竜閑河岸には上総、房州からの荷が揚げられた。


そして、青物役所、というもの。


明暦の大火以降、それまで各地に散在していた青物商が
神田多町を中心に集まり、青物市場を形成するようになった。


当時の問屋総数は94軒。1714年(正徳4年)幕府は竪大工町に
青物役所を設け、江戸城で消費する野菜類の上納を命じるようになった。
(後、役所は多町、さらに新白銀町に移転。)


このあたりが、公式にもこの界隈が青果市場として成立した時期、
と、いえるかもしれない。
ちなみに、江戸市中でいえば、ここ以外にも青物市場はあり、
代表的なものは、京橋の大根河岸。ここににもその名の通り、
明治以降まで、青物市場が立っていた。


そんな具合で、神田の青物市場ができていったのだが、
その後、この多町に隣接する、東側には、主に果物を扱う、
果物市場も成立してくる。


時期は、明和から享和期(1700年後半から1800年)。
多町の東の須田町へんには、多町の青物市場とは別に
果物(水菓子)の市が毎日立つようになっていたのである。


近郊はもちろん、そうとう遠方からも大消費地江戸には
果物が集まるようになり、特殊な例では柳原河岸には
紀州藩のみかんの揚場があり、藩が直接みかんを江戸に運んでいた。


こんな川柳もある。


〜須田町で 秋は木偏(きへん)の市が立ち(柳多留) 


むろん、柿、の、ことである。


「神田市場史」などをみていたら、
江戸期の野菜と主産地があったので、おもしろいので、
書き出してみる。


練馬大根(練馬)、汐入大根(汐入=南千住)、荒木田大根(三河島、尾久)、
たくあん大根(荏原郡諸村)、滝野川ごぼう滝野川)、
砂川ごぼう北多摩郡砂川)、矢口ごぼう多摩川矢口)、
三河島菜(三河島)、小松菜(小松川、松江)、ねぎ(千住、小岩)、
薩摩芋(武州川越)、里芋(常陸、下総)、白菜(常陸牛久沼)、
胡瓜・茄子(砂村、大井他)、にんじん
(松江、瑞江、小岩、大井)など。


この他、江戸期には、走りものの禁止令、なんというのが
出されていた。


今もそうだが、江戸の人々にも初物が好まれ、
高値がつけられることが多かった。


そこで、幕府は、高騰を抑えるため、
流通の時期、解禁の日を決めていたのである。


この走りもの禁止令ににある青果、果物も書き出してみる。


つくし、生わらび(船橋、検見川、青梅在)、葉生姜(谷中)、
筍(目黒、戸越、稲毛)、茗荷(下戸塚)、生椎茸、
ぼうふう・たで(千住在)、根芋(=芋茎(いもがら)、雑司ヶ谷)、
大塚、早稲田)、ささげ、松茸、なすび、びわ、りんご、ぶどう、
九年母(くねんぼ・柑橘類)、白瓜、真桑瓜、梨、柿(高井戸)、
蜜柑(紀州)、独活(うど・高井戸、練馬)、ふきのとう、木の芽、
山葵(伊豆地蔵堂村)、蓮根(赤坂溜池、不忍池、下総猿島)、
くわい(武州川口)、ゆり根(武州鴻巣)など。


見渡してみると、今でも、名前が残っている産地もある。
練馬大根、小松川の小松菜、千住ねぎ、川越の薩摩芋、
谷中の生姜、多摩の独活などなど。


あるいは、荒木田大根などわからなくなっている、ものも
ある。


私の祖父母は、大井町あたりの生まれ育ちだが、
竹林がたくさんあり、筍は名物であったと、聞いたことがある。
(戸越は、近所、ではある。)


また、不忍池、赤坂溜池で蓮根を作っていたのは、
びっくり。


しかし、それにしても、江戸の頃とはいえ、
品種の多さには、驚かされる。
さすが、大消費地、江戸、で、ある。


と、いったことで、長くなった。
明治以降の神田市場は、また明日。