浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

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池波正太郎と下町歩き1月 その2

さて。



引き続き『講座』の1月。





より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き1月 内神田 を表示






江戸の地図




西口から出て、神田駅の話をし、
歩き始める。


歩き始める、と、書くと簡単なのだが、
先日も書いたが、神田駅のまわりは、ちょいと、道がヘン。


西口を出ると、道路が斜めになっている。


原因は、上の、江戸の地図と、現代の地図を


見比べていただくと、一目瞭然である。


この神田駅付近は、江戸の町割りが、ほぼそのままであることが
お分かりになろう。


神田駅は、この町割りとは無関係に置かれており、
こんな斜めの道になっているのである。


で、西口前から、北へ上がっている通りを次の路地の先、
ドラッグストアの前まで歩く。


ここには、神田下水跡、という碑と、
このあたりの各町にある、町名案内盤がある。


この付近まで歩き、幸いこの付近、土曜のこの時間、
人通りも少なく、車はほとんど通らない。
この路上でお話し開始。


そもそも、神田とは?。


やはり、ここから話さなければいけない。


江戸開府以前。


地形的には、本郷台、神田山の台地の南で、
平川(江戸川)、小石川のいわば氾濫原で
池や沼のある低湿地であった。


最初にこのあたりが歴史に登場するのは
将門塚、と、いってよいのだろう。


将門の首塚は、今、大手町の三井物産のそばにある。


平将門を祀ったものだが、できたのは、
むろん、将門の乱の後。それも乱の比較的すぐの、
平安末期から、室町初め頃ではないか、と、
考えられているようである。


この将門塚は、今の神田明神とほぼイコール。
同じもの、と考えてよいよう。


家康の江戸入り時に神田明神は、今の
山の上へ移されたが、それまでは、将門塚と
一緒にあったのである。


当時の大手町あたりは、芝崎村と呼ばれていたらしいが
神田、というのは、私の推測だが、字の通り、
神の田んぼと考えると、将門塚の近いところにある、田んぼ、
というあたりが、その由来ではないか、と、思われる。


江戸城は、鎌倉時代、当初は、江戸氏。


造られた場所は、日比谷入江の北西。


当時、江戸城から、武蔵野国の北へ通じていた
岩付(槻)街道があり、神田は、
その街道沿いの小さな村であったようである。


さて、江戸城鎌倉時代の江戸氏から、室町になると、
ご存知の大田道灌の太田氏のものとなり、その後、
戦国時代は、北条氏の支城。


そして、家康公の江戸入国、と、なる。


江戸入国とともに、小さな城のある江戸湾の奥の町、
ともいえないような村の集まりであったところに、
城下町造りが始められた。


神田も一変。
先に書いたような、池や沼も埋め立てられ、
市街地化が進んでいった。


京橋、日本橋には商人が集められ、問屋街が形成されるのと
前後して、神田にも発展が始まった。


当初、鎌倉河岸付近に江戸城外濠の水運から、魚市場が開かれ、
またその北側の多町には青物市場が開かれた。
(青物市場はまた、後に述べる。また、魚市場は後に、
ご存知の、日本橋に移転する。)


これに対し、日本橋通りの延長である
現中央通り沿いの区域には鍛冶町、紺屋町、大工町、
鍋町、白壁町などの職人町ができていった。


家康は城下町経営の一環として職人を集め、土地を与え、
家臣をその頭とし支配を任せた。職人達はその代償として、
国役という、技術奉仕を請け負っていた。
鍛冶町は鍛冶、紺屋町は染物、鍋町は鋳物、白壁町は左官
などであった。


これで、江戸の職人町としての神田が始まったのである。


江戸初期の神田で、もう一つ、触れておきたいことがある。


それは、神田上水のこと。


むろん、神田上水は神田だけで利用されていたわけでは
ないが、やはり、ここで触れた方がよいだろう。


江戸というところは、海辺の埋め立て地が多く、
井戸を掘っても、水は出ない。
家康の城下町建設には、水の確保が必須であった。


神田上水は、江戸川(神田川)の、今の、椿山荘の下あたり、
関口大洗堰から取水し、関口水道町、小日向水道町(現巻石通り)、
小石川水道町と、ここまでは開渠で通した。


開渠というのは、野天の、堀、で、ある。


ここから水戸藩邸(現小石川後楽園)を通り、
現水道橋の150mほど下流で、文字通り水道専用の橋で
神田川を懸樋で渡し、これからは木管で土中を流し、
神田、大手町、日本橋京橋川隅田川まで)に水を供給した。
つまり、江戸の北側が神田上水
そして、江戸城を含め、江戸の町の南側は玉川上水であった。


神田上水は江戸期を通して利用され、さらに明治維新後にも
継続して使われ、最終的に廃止されたのは
1901年(明治34年)であった。




と、いったところで、明日につづく。