浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き 9月その1

9月18日(土)


さて。


いよいよ、今期最終回の、NHK文化センターの講座
池波正太郎と下町歩き』で、ある。


今週も、昨日は宮崎出張などあり、
仕事はそこそこに、忙しかった。


昨日は、11時すぎに帰宅。
皆さんに配布する資料の準備は終えてあり、
まあ問題は、ない。


今回は、前にも書いたが、浅草北部。
浅草北部というのは、まあ、平たくいえば、吉原あたり。


この『講座』の第一回も浅草であったのだが、
この時は、稲荷町から、池波先生の育った元浅草
永住町、合羽橋を抜けて、池波正太郎記念文庫をまわり、
田原町菩提寺、食事は駒形のうなぎや、前川。
つまり、浅草でも、西部から、南部。


今回は、北部。
これは、先に吉原、と、書いたが、最初に決めたのは、
先生の生誕の地、で、台東区が建てた碑もある、聖天町。


このあたりを歩くのであれば、もう少し、足を延ばして、
吉原も。


と、考えてくると、ご存知の方はそう多くはなかろうが、
吉原、というのは、今、交通としては、不便なところにある。


最寄駅は、今は、つくばエクスプレスができたので、
この六区にある、浅草駅だが、その次は、日比谷線三ノ輪駅


三ノ輪、吉原、と、くれば、吉原の投込み寺、
と、呼ばれてきた、三ノ輪の浄閑寺も見た方がよいだろう。


吉原の、華々しい歴史だけではなく、
“陰”の部分も見てもらいたい、いや、セットで
見るべきもの、であろう。
そんなふうに、考えた。


地図はこんな感じ。




より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き9月 を表示


三ノ輪の浄閑寺を見て、吉原、旧山谷堀を歩いて、
今戸、隅田川まで。


池波先生生誕の地の碑があるのは、待乳山聖天
聖天様は、今戸橋の隣。


聖天様から、芝居町猿若町
馬道、二天門、三社様、弁天山の時の鐘。


食事は、天ぷらの中清。


ルートは、概略、そんなところ。


ただし、これを全部歩き通すと、
そうとうなことになる。
そこで、三ノ輪から、二つばかり、バスに乗って移動。
これで、時間短縮にもなるし、歩く距離も減らせる。
やっと涼しくなったが、まだ残暑は残るであろうと、
いう配慮、からである。


と、いったことろで、土曜日。


起きたのは、8時頃。
朝飯は、冷蔵庫にあった、冷飯に生玉子としょうゆを
かけて、掻っ込む。


天気はよさそう。
と、いうことは、そこそこ暑くなるか。
天気予報では、29℃といっている。


着物は、先月の小千谷縮で、前回はせっかく直したのだが、
あまりにも暑くてやめた、黒の絽の羽織。
羽織を着るので、素足に下駄ではなく、白足袋をはいて、
黒い鼻緒の雪駄。こんなところ。


10時半すぎ、出る。
春日通りで車を拾って、左衛門橋通りを北上、
言問通りまでいって、左折、昭和通りで、三ノ輪、
まで、10分ほど、1,000円ちょい。


待合わせは、大関横丁交差点北東角の日比谷線出口。


北西角で車を降りて、横断歩道を渡って、
入口に急ぐ。


もう、八割方の皆さんが集まっている。
湿度は多少低いが、やはり、日差しが強く、
だいぶ暑くなっている。


11時、全員集合を待って、ご挨拶。
資料配布をし、出発。
まずは、浄閑寺を目指す。
目指すといっても、浄閑寺は、この大関横丁交差点の
すぐ裏。


界隈の江戸の地図を出しておこう。





現代の地図と比べてみると、このあたりは、
随分と位置関係が違っている。


東の方に吉原があり、山谷堀があり、浄閑寺は山谷堀に
接してある。


山谷堀は今の昭和通りを越えて、南へ曲がり、
この先は、今の台東区荒川区の境を通って、
根岸、西にカーブし、羽二重団子の前を通って、
日暮里へ続いていた。
(むろん今は、暗渠。日暮里の先は、王子まで。
王子を流れる石神井川、音無川から分かれたので
石神井用水とも呼ばれていた。)


山谷堀などの実際の位置関係が江戸の頃と違っているのではなく、
この江戸の地図が、まあ、いい加減といった方がよいだろう。


江戸もこのあたり郊外。
地図もテキトウ、と、いうことであろう。


昭和通りから、旧山谷堀の路地へ入ると、
すぐ左側に、浄閑寺
寺の山門の脇に、「浄閑寺(投込み寺)」のタイトルで
荒川区の設置した案内板がある。


浄閑寺は、吉原の遊女、遣手(やりて)、その子など、
関係者が葬られた寺。
江戸から、昭和までの過去帳がある。


入ると、左側が墓地。
そう大きなお寺さんではない。


長くなった。
つづきは、またあした。