浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き7月 その2

さて。


引続き『講座』4回目、本所深川編。






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江戸の地図も。





両国駅から、両国橋まできて、橋の上の日陰
(両国側は上を首都高向島線が走っている。)に入り、
両国橋の説明など終わる。


次に、過ぎてきた、猪鍋やの、もももんじや
私は、一度きたことがある。


ももんじゃ


1718年(享保3年)創業という。この頃は、豊田屋、というのが屋号。
ももんじ、とは、元々は猪に限らず、牛、馬、鹿、はもとより、
犬、猿まで、獣の肉を扱う料理屋の一般名称で、ももんじ、と、
いう看板を掲げるものだったという。
やはり少なからず、江戸期にもこうしたものが好きな人
はいたのであろう。
落語、二番煎じにも、猪鍋は登場。
冬、町内の夜回りをする旦那衆が、寒さしのぎに、
番小屋で、みんなで猪鍋を囲んで、酒を呑む。



この絵は、この店のマッチ箱からとったもの 。 広重、江戸名所、東両国
豊田屋、とある。(これは有名な初代歌川広重の「江戸名所江戸百景」
シリーズとは別のもののよう。宣伝用に書かせたものか。)
山くじらは、猪では外聞が悪いので、くじら、で、ある、と、称した。
まあ、酒落、であろう。(ちなみに、くじらは、魚である!
さらに、どうでもよいが、蛙も昔は、虫であった。)
定食 4500 円。猪肉は煮れば煮るほど柔らかくなり、うまい。


東西の両国。
明治期までは、両国といえば両国橋をはさんだ両岸が両国。
東両国、西両国と呼ばれていた。どちらも橋の扶は広小路(広場)で、
著名な料理屋をはじめ、小屋掛けの芝居、見世物、その他、
盛り場として大いににぎわっていた。
(ただし、当時は江戸中心部に近い、西両国の方がより
にぎわっていたという。)


と、いうことで、ももんじやだけでなく、今でも江戸から続く、
料理屋が、なん軒かある。


元の広小路と思われるところから、一つ目通り方向に路地を入り、
一つ目通りに出るかどに、もうず志ゃも、という軍鶏鍋やがある。


ぼうず志ゃも
天和年間 (1681〜1684 年 ) 創業のしゃも鍋や。
落語、舟徳にも登場する。鍋コース 8400円のみ。


ここ、一度きてみたいのだが、土日休みで、ウイークデーの夜のみで、
なかなか、これないのである。
落語の舟徳、に出てくる、というのは、筋にはほとんど関係ないところ。
舟徳といえば、往年の大名人、この人以外にない、という
桂文楽師(むろん先代)。この文楽師のものに、ほんの一言だけだが、
この店の名前が出てくる。(若い舟頭がこの店で、たらふく呑んで、暴れた、
という挿話として。)


この、ぼうず志ゃも、から、一つ目通りを少し、南方向へいくと、
これは、碑、案内板だけだが、与兵衛鮨があったところ。


与兵衛鮨
花屋与兵衛。 1824 年 ( 文政 7 年 ) 創業で、江戸前鮨(にぎり鮨)の元祖という。


鮨の歴史などは、以前に散々書いたが、
今、江戸前のにぎり鮨を最初に始めたのは、この花屋与兵衛である、
というのが、定説といってよいのだろう。


さて。
ここから、今度は東方向へ。


左側、先ほど山門に寄ったが、回向院の裏。
裏から入って、ねずみ小僧の墓やら、見学兼ねて、
10分ほど、休憩。
大きな木陰で、私も一服。


いゃ〜、それにしても、暑い。
なにか、我慢比べのようである。


次は、入ってきた、裏口を出て、さらに東方向へ。


本所松坂町公園 : 吉良上野介屋敷跡。


ここは、たまにTVなどにも出るので、
知っている方も多いかもしれない。
おそらく、10m四方もないのではないか。
なまこ壁の塀で囲われた、ほんの小さなところ。
むろん、本物の吉良邸はもっと広く、ほぼ松坂町全体
といってもよい広さ。


狭いところで風が通らず、暑い暑い。


むろん後から作ったものだろうが、首洗いの井戸などある。
とっとと、退散。


松坂町公園の突き当たりが、両国小学校。
角に、芥川先生の文学碑(「杜子春」の一節が刻まれている。)。
小学校の向こう側に出て、両国公園。その一番奥。
木陰に、勝海舟生誕の地の碑がある。


ちょうど、木陰。
皆さん、公園のちょうど腰掛けるに手頃な柵に腰を掛ける。


勝海舟の説明。


本所亀沢町・両国公園 : 勝海舟生誕の地 (旗本男谷家跡)


・男谷(おだに)家
海舟の曽祖父は、越後刈羽郡長嶋村の農民の子で盲人であった。
江戸ヘ出て莫大な富を築き盲人(座頭)の最高位、検校となり米山
(男谷) 検校と称した。息子忠恕 ( ただひろ、海舟の祖父 ) に三万両で
男谷家の株を買ってやり(持参金付きの養子)男谷家の当主とした。
海舟の父、小吉は三男で、七歳で旗本勝家の養子となった。
当時既に当主は亡くなって、男谷家に妻のお信と祖母を引き取った。
幕末の直新陰流剣客として著名な、男谷誠一郎信友は忠恕の孫にあたる。
(海舟からは従兄 )。浅草阿部川町に道場があり、海舟が師事した
剣豪島田虎之助は男谷誠一郎門下。


勝海舟
1823年(文政6年)生まれ。幼名、麟太郎(りんたろう )。本名義邦 (よしくに) 、
維新後改名して安芳(やすよし)。 海舟は号。
銅像本所吾妻橋墨田区役所にある。亀沢町の男谷家に生まれ、
その後、小吉が本所入江町(ここから束、錦糸町に近い大横川、
江東橋付近、長谷川平蔵の育ったところとしても鬼平では設定されている。)
ヘ移り、16歳で勝家相続、23歳、結婚、赤坂多町ヘ。
微禄の旗本で、父小吉は無役、幼少期、相続後もそうとうな貧乏生活を送りながら、
剣術修行(師匠は前述の島田虎之助)に励み、目録をもらう。
その後、一転、蘭学の勉強に励む。 31歳、ペリー来航が転機。
幕府ヘ提出した建白書が幕閣の目にとまり、欧米列強に対して、
海軍を建てることを説く。開国派、開明派として出世。
咸臨丸での日本人のみの初の太平洋横断を指揮。
薩長など倒幕派とも人脈があり大政奉還後、
いわば幕府最後の終戦処理内閣の総理ともいえる立場で、
江戸無血開城を成し遂げる。あまり知られていないが、維新後も、
ご意見番として明治政府に頼りにされ、幕臣ながら数少ない政府閣僚にもなっている。
1899年(明治32年)没、78 歳。正二位勲一等伯爵。


やはり、勝海舟、素直に偉かった、と、思う。
江戸人として、郷土の英雄として誇るべき人。


だがやっぱり、江戸っ子で、巻き舌の江戸弁を操り、
剣も強く、頭もいい。写真が残っているが、苦味走った、
いい男である。そして、女性にもモテた。
〆て、今考えても、そうとう、カッコいい。


両国公園の木陰から、重い腰をあげ、気力を振り絞って、
二之橋へ向かう。




といったところで、今日はここまで。
つづきはまた明日。