浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

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「食べ物日記―鬼平誕生のころ」を読んで。その2 青柳、小柱、うに、、、、上野の山散歩

6月13日(土)第二食


さて、引き続き、池波先生の「食べ物日記―鬼平誕生のころ」を
読んで、食べたくなったもの。
(なのだが、今日は、そこまでたどり着かない。
上野の山散歩記、のようなもの。ご勘弁を。)


次は、(生)うに、と、柱。
柱は、むろん小柱のこと。


昨日も書いたが、今頃から、夏にかけて、池波先生は
うには、ご家庭で、よく食べている。
やっぱり、こってり系、が、お好き、だったのである。


私などは、鮨やで食べることはあっても、魚やで買って、
食べる、ということは、ほとんどなかった。
読んでいて、食べたくなった、のである。


また、小柱は、小柱と三つ葉かき揚げ。
奥様のお手製なのであろう。
定番のように出てくる。


先日、小柱は、かき揚げをやってみたが、
三つ葉は入れなかった。
そうであった。かき揚げには、ねぎもあるが、小柱なら、
三つ葉は定番。断腸亭としては、うかつであった、、。


9時半ごろ、買い出し、床屋、運動も兼ねて、


上野方面に下駄で出る。


やけに早いが、QBの開店時間に合わせてのこと、で、ある。
歩きながら、稽古、というほどではないが、
ちょっと、落語をさらってみる。
(なかなか乗らない。)


広小路のQBに着く。
待っている人は二人ほど。
少し待って、やってもらい、出る。


これから、上野の山をまわってみようか。


鈴本、酒悦の前を通り、三橋の交差点を渡る。
不忍池の方を見ると、蓮の葉が茂っているのが見える。


そういえば、この前、蓮玉庵の回に、蜀山人南畝先生の蓮飯の文章やら、
荷風先生のこの界隈の風景をほめた文章やらを引いてみた。


花がもう咲いているかと、池の畔(ほとり)まできてみるが、
まだ、の、ようである。


上野の山の緑と、不忍池、弁天堂の赤、蓮の茂った緑、
池の水面、そして、まわりの池の端の町並み。


あらためて、見直してみると、それなりに見られないことはない、と、
思えてくる。


近景としての不忍池
なんといっても、蓮の葉というのは、茎が長く、葉も大きく、
量感があり、池からあふれるような存在感がある。
その盛り上がった蓮の背景に池を取り囲んで茂る、街路樹。
右手、同じく、蓮に埋もれるように池の中に、見える
赤い弁天堂。
そして、右手、ちょっと、木の茂り具合、量感には寂しさもあるが、
上野の山の緑。


緑の向こう側にある、高層マンションやら、池之端界隈の
中低層のビルを、蓮の葉の量感が圧倒している、とも感じられる。


今の不忍池も、そうそう捨てたものではないじゃないか、で、ある。


ここから、もう一度、上野公園の正門側、黒門口、
階段下へ戻り、階段を登る。
幼稚園だか保育園だかの小さな子供達が、
広い階段で集合写真を撮っている。
その脇を抜け、登り切る。


西郷さんの銅像が右側。
まだ午前中だからか、ここもさほどの人の数ではない。


喉が渇き、自動販売機でペットボトルのお茶を買う。
歩きながら飲み、左側、清水(きよみず)様の舞台の方へ
いってみる。
これは、ミニチュアサイズだが、むろん、
京都の清水寺とその舞台を模して造ったもの。


今、舞台の上からは、木が茂って不忍池は見えない。


昔は見えたのだろうか。
ここが文字通り、舞台になっている、
崇徳院(すとくいん)という落語がある。
噺の中の描写に景色のことがあったような気がしていた
のである。
(広重なども描いているので、見えたのであろう。)


重要文化財の立て札が立っている。
この清水観音堂も、安置されている観音様も
ともに、重文、である。寛永寺の中で、残っている
建物の中では、江戸も初期、文字通り寛永年間、の建築で
最も古いらしい。
これが京都にあれば、アリガタミが段違いに感じられる
のであろう。上野の山は、なにげなく、というのか、風情なく、
と、いうのか、こういうものがある。


またまた、西郷さんの方に出てきて、少し奥まで
歩いてみる。今まで、気に留めていなかったが
ここには、奥に向かって二つの建造物がある。


手前は、上野彰義隊の碑。
山岡鉄舟の筆によるものだそうが、やはり、官軍の総帥
西郷さんに遠慮をするようにあるようにみえる。


その奥は、周囲を囲われたお墓のような、、と思い、
案内札を見てみると、上野寛永寺の開祖、家康の
政治顧問のような役割も果たしていた、天海僧正
遺髪塔。


へー、、こんなものもあったのか、、、で、ある。


(坊さんの遺髪、というのは、なんであろうか、、、。
ちょっと聞いただけでは妙である。)


一休み、と思い、再び西郷さんの前に戻ってくる。
西郷さんに面したベンチに座って、灰皿もあるので、一服。


グループで記念写真を撮っている初老の男性達の
シャッターを押してあげたり、、
天気もよく、のんびりできる。


再び立ち、ここから、野球場、噴水の広場、国立博物館(今は常設展)、
科学博物館(恐竜展)、西洋美術館(ルーブル展、長蛇の列でなんと
150分待ち。)と、まわってくる。


結局、上野の山を含めたこの界隈の風物は、なんであろうか。


今の不忍池、上野の山、清水観音堂、、などなど、
それなりの道具立ては今でもあり、実は南畝先生やら、荷風先生が
書かれていたような、江戸の頃の面影は、そう思ってみれば、
今でもしのばれる、のではある。


だが、私を含め、現代の東京人は、そういう目で上野の山や、
不忍池を、見ていない、ということなのである。


上野御徒町界隈が、明治以降たどった歴史によるものも
大きかろう。
以前に、とんかつ発祥と、上野、といったことを考えたことがあった。


東北日本に開かれた東京の玄関口としての上野の歴史。


その間に様々なものが、江戸の上野の上に、降り積もったのが
今の姿、なのであろう。


また、上野の山は寛永寺を含めて、江戸幕府の、江戸における
もう一つの城といってもよいものでもあった。
さらに、私などの祖父母までは、まだ、上野の山といえば彰義隊
これは常識のようなものであった。


彰義隊は、江戸庶民から見れば、殿様である徳川将軍家と、
上野の山と、江戸の町を死守するヒーローであり、その記憶が、
明治生まれの東京人には、実感を持って、まだあった。


今の、例えば、20代の東京生まれの若者は、彰義隊の名前すら
知らないことであろう。


そういう意味で、下駄を履いて、上野の山を歩き回っている
私などまさに、時代錯誤の存在なのであろう。


ともあれ。
山を上野駅側に降りてきて、駅前のガード下の横断歩道を渡り、
アメ横の路地に入っていく。
まだ午前中で、人通りはさほどでもない。


アメ横ビルのY字路を左側、線路際の道を取り、
いつもくる、右側に魚や。
ここは、午前中は、まだ準備中。


吉池を目指す。


吉池。


まずは、目当ての、小柱。
今日は、売り場には、千葉産のみ。
トレーを二枚。


それから、うに。
うにを、ここで求めるのは初めてである。
価格もサイズも、色々ある。


北海道産、ロシア産、それから、同じロシア産なのだが、
北方四島、と書いてあるもの。


値は北海道産が最も高く、次が北方四島、その次が
普通の(?)ロシア産。


あまり大量にあってもしょうがないので、
小さめの木製容器で、700円、北方四島産に、
してみよう。
(むろん、馬糞ではなく、むらさきうに、で、あろう。)


さらに、、
売り場を見ていると、柱ではなく、青柳の身。
1パック、300円以下。
貝柱の方が高い、というのも考えてみれば、
不思議な貝、で、ある。
ついでに、これも買おうか。


腹が減っているせいであろうか、色々目につく。


魚も買おうか、などと、ついつい思い付き、
今日、安そうな、真鰯。
小田原のもの、一匹70円、これを5匹。
そうそう、この前、初めて〆たが、小肌も、、
4匹入りで一袋、350円、これも。


OK。


忘れてはいけない。
三つ葉であった。
小柱と三つ葉かき揚げ、で、ある。
3把。


以上。


ずいぶんな荷物になってしまったが、
このまま、帰宅。




(恐縮であるが、今日はここまで。
また明日。)



食べ物日記―鬼平誕生のころ