浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



テオドル・ベスター著 『築地』 その1

dancyotei2009-03-08

築地

築地



今日は、ちょっとイレギュラーだが、
書評のようなことを書きたい。


表題にもあるように『テオドル・ベスター著 築地』
木楽舎2007)という本。


いや、本というよりは、論文。邦訳で537ページという大著。
著者、T.ベスター氏は米国ハーバード大学教授、専門は人類学と日本研究。
簡単にいうと米国の人類学の先生が「築地」を研究した成果、と、
いうことである。


訳は、名波雅子、福岡伸一の両氏。(福岡伸一氏は分子生物学者。
私も読んだが『生物と無生物の間』がベストセラーになった方。)


私は、筑波大学で日本民俗学を勉強していたのだが
(まったく不勉強な学生ではあったが)
日本民俗学と人類学(文化人類学)は、まあ、隣、
それも相当に近い、兄弟学問、と、いってもよい。
従って、学校でも当時は、どちらの専攻の学生も両方の
授業を取り、また、実習(調査、フィールドワーク)も
共通で行なわれていた。(今もそういう関係なのかは、わからないが。)


そんなことで、私の軸足は日本民俗学であったが、
関係する、文化人類学の研究書、論文も読んではいた。
だが、まあ、それも20年以上前のことで、
今の、文化人類学、特に都市を扱う都市人類学というようなもの
の動向もまったくフォローしていないので、
素人に毛の生えた者の感想の域を出ないことをお断りしておく。
(まあ、文化人類学を学生時代に、少しかじったことのある、
私、断腸亭としての、感想、で、ある。)


こういう著作がある、というのは、NHKであったか、テレビで
これにはベスター氏も出演されていたと思うが、知った。


アメリカ人の人類学者が“築地”を研究された。
これは読んでみなきゃ、というのが発端。


読み始めてみると、正直のところ、これがそうとうに読みずらい。
むろん原著はロジカルに書かれた英文で、その邦訳である。
原著も、もともと難解なのであろう。
エンターテイメントを目的に書かれていないので、
読みやすさ、まで要求するのは当たらないのであろうが、
読み終わるまで、ちょっと時間がかかってしまった。


“築地”とは、むろん、東京都中央区築地5〜6丁目にある、
東京中央卸売市場築地市場
築地魚河岸、で、ある。


ベスター先生が、築地を直に見る機会になったのは1975年、
語学の勉強のために、東京にきて深川に住んでいた
ときであったという。
(先生は1951年生まれなので、当時24歳。その後、なん度も
東京を訪れ、フィールドワークをし、特に東京下町の研究を
されてきた、と、いう。)


この築地の研究を始めたのが1989年(平成元年)。
フィールドワークは2003年まで続けられ、2004年にこの
原著作『TSUKIJI The Fish Market At The Center Of The World』
を出された。


調査期間は、平成元年から、平成16年まで16年間。
日本の時代背景とすれば、バブル絶頂期、崩壊、不況、
そして、最近まで。


この著作は、米国の人類学会でも高く評価され、
学会の様々な賞を受賞されている。
日本の、それも東京築地魚河岸を扱った研究が、
彼の国で評価されたということは、東京に住む、
人類学を多少かじったことがある者として、素直に、
ありがたいことであり、また、喜ばしいことと思う。
(この論文の原題の“The Fish Market
At The Center Of The World”がよいではないか。
世界の中心の魚市場、で、ある。
日本人はあまり意識していないが、客観的には、築地は、
そういうところ、なのである。)


文化人類学には、エスノグラフィー、民族誌と呼ばれる
研究手法、研究分野、と、いうのであろうか、が、ある。


ある民族なりの基礎調査、基礎研究といったらよいのか、
人類学的アプローチで、対象の全体像を把握する研究、
で、ある。


つまり、なんらか、普遍的な理論を述べるための論文ではなく、
あるいはまた、どこか特定の部分、例えばセリの仕組みであるとか、
仲卸の世代交代の力学、で、あるとか、に焦点を当て、
それを読み解くことを目的としたものでもない。
いわば、事実を積み重ね、全体像を明らかにすることを目的として、
結論として、なに?というものがなくても成立する研究と
いってよいのかもしれない。


この『築地』は、築地市場を、フィールドワークに基づいた、
事実を淡々と述べている。そういう意味で精緻なエスノグラフィー、
民族誌の体裁を取っている。
このため、特定の結論があるわけではない。


今も動きつつげている、築地魚河岸というところは、
様々な側面を集めて、こういうところです、というのが
いわば結論、と、いえば、いえるのだろう。


日本国内で、これだけ網羅的に築地を扱った
研究が過去にあるのかどうかわからない。
おそらく、希少なのではなかろうか。


東京に住んでいる、魚好き、鮨好きとして、
築地というところはむろん、興味はあるが、
素人お断り、我々などが足を踏み入れてはいけないところ、
という感覚が、私などには強い。


従って、築地の中で、どういう仕組みで、セリが行われているのか、
そこにはどういう登場人物があるのか、あるいはまた、
江戸時代にさかのぼる日本橋魚河岸からの歴史、などなど内部のことは
ほとんど、知らないといってよいだろう。


これらを明らかにしてくれた。それも、外国人の
文化を見るプロ、人類学者の目で説明してもらえた、
というのは、とても勉強になった。


内容は八章だてで、概論、歴史、築地の背景となる日本食とは、
システムとしての築地市場、仲卸の人、店舗、などに
焦点をあてたディテール、ある程度の裏事情も含めた
築地内部の力学、などなど、多岐に渡る。


全部をここに述べるのは冗長であるし、
本書を読めばよいことになるので、むろんしない。
私の知らなかったこと、へ〜〜と、素朴に関心したことを、
抜き出してみたい。
(従って、プロの方は、皆さん知っていること、であろう。)


まずは、歴史。


築地魚河岸は、ご存じの通り、関東大震災で壊滅した
日本橋魚河岸(魚市場)が1923年、大正12年に、
移転した、わけである。
(それから、今年で86年。基本設計や、建物も当時のものが
まだまだ使われている。考えてみれば、いまだにあそこにあるのが
不思議なくらい、で、ある。)


その、築地前史ともいえる、日本橋魚河岸の歴史。


これは、丹念に述べられている。
徳川家康は江戸入城後、城下町としての
江戸の街の整備を進めていった。
その中で、日本橋に魚河岸ができたのだが、
その起源は、佃島に由来していた。


これは私は知らなかった。


どういうことかというと、登場するのはその佃の漁師、
で、ある。


家康によって、当時、上方の先進的な漁法を持っていた、
摂津(大阪)佃村の漁師が江戸に呼ばれ、
佃島に土地を与えられ、江戸湾での漁業権をもらい、
その見返りに、江戸城に魚を届けた。
これは、皆知っていることだろう。


そして、その佃の漁師が江戸城に収めた残りの魚を売る許可をもらい、
1613年、慶長18年、日本橋の河岸付近(日本橋本小田原町)に
魚やを開いた。これが始め。
ポイントは、佃の漁師が、魚河岸を始めたということ。
そして、今でも築地の仲卸で“佃”の文字を屋号に入れているところ、
数十軒あるらしい、は、その子孫である
(と、少なくとも伝承されている)。


ふーむ。
驚いた。
佃島の漁師、おそるべし。


考えてみれば、あたりまえの話だろうが、彼らは魚河岸発生にも
重要な役回りを演じており、今もその痕跡がある、と、いうこと
これは驚き、で、あった。


そして、当時の重要なシステム上納制のこと。
江戸期の魚河岸では幕府から許可された、佃の漁師からの
魚問屋をはじめ、数軒あり、彼らはいわば年貢として無償で魚を
幕府に上納しなければならなかった。
これが、段々に魚問屋達には、重荷になり、様々な
不正や癒着が横行した、という。


また、当時の漁師と魚の流通システムの話。


今、築地で行われているような、市場としてのセリ制度、
というものは、この頃にはまだない。


先に、佃の漁師のことを書いたが、漁業権というのは、
幕府なり、その地元の領主から与えられるものなのだが、
それが、いつしか、日本橋の問屋が牛耳るようになっていったらしい。
持ち浦、と呼ばれたというが、「江戸の問屋は地元の「《網元》」に
設備や道具の費用を現金で前払いし、長期の取引関係を結んだ」という。


江戸幕府の崩壊とともに、先の上納システムはなくなったが、
問屋が牛耳る、持ち浦、の制度は、実際のところ
明治になっても続いたらしい。
(結局、新しい流通の仕組みは、築地移転後のことという。)


もう一つ、江戸期、幕末で、ちょっと、おもしろい話があった。


1883年、慶応3年。新政府軍が江戸へ向けて
進軍を続けている中で、幕府から、日本橋の魚問屋達に江戸を
守るために兵を挙げるように要求された、と、いう。


さすがにこれには、魚問屋達も躊躇したというが、相談の結果、
最終的には、俺達も日本橋の男だ、俺達の街に攻めてくるのは
野暮な田舎者。じっとしてはいられないと、奮い立ち、
「一人一人が武器として桶板と矛、魚を切る大包丁を持ち、
魚市場のシンボル(筆者注:例のひげ文字の、丸に魚がし、であろう)
がはっきり見えるように鉢巻をして」日本橋から江戸橋に陣を構えたという。
結果は、ご存じのように、江戸無血開城
戦乱があったのは、上野の山だけ。


日本橋魚河岸の歴史には、
こんなこともあったようである。




ひとまず、今日のところは、ここまで。
続きは、また明日。