浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



神楽坂のことから、江戸の岡場所と東京の花柳界について、おまけ

今日は、昨日の続き。


と、いっても、日記の続きではなく、江戸の岡場所やら、
東京の花柳界について、おまけ、のようなもので、ある。



私はこの日記で、東京の街だったり、
そこにある食いものやについて書いている。


そのなかで、こうした花街というようなものは、
まったく、関係ないようだが、実はちょっと調べただけでも、
関係おおあり。東京には、以前は花街であった、
という盛り場がたくさんあるのである。。


そして、こういうことは、歴史として
きちんと記録されているものではない。
だから、今知る人も少ない。


私は、自分の故郷として、そういったものも含めて
(ここにそのままを、書くかどうかは別としてだが)
知っておきたい、と思うのである。


なぜならば、記録されなかった、もっというと、隠しておきたいこと
も含めて、それらは、まぎれもなく我々庶民の営んできた、
生の姿、歴史、だから、なのである。


そこで、昨日の続き。


昨日のものを、ご参照下されたい。


※1:神楽坂行願寺門前の岡場所“山ねこ”


普通には、この神楽坂のさらに北側(昨日の地図には入っていないが、
今の大久保通りを越えて右手奥に入ったところの)
牛込の総鎮守、赤城明神門前にも岡場所があり、
これとあわせて“山ねこ”ということらしい。


じゃあ、神楽坂の岡場所がなぜ“山ねこ”なのか。


なんでも隅田川を越えて、両国に、回向院土手、と呼ばれる岡場所があったという。
これが金猫、銀猫といわれていたらしいのである。
金猫は値段が金一分、銀猫はその半分の七匁(もんめ)五分(ぶ)。
そして、この神楽坂赤城が金一分、行願寺は七匁五分で、
山手の猫だから、山ねこ、ということらしい。


ちなみに、前に書いた、市谷亀岡八幡の岡場所は、十二匁で「高級地」と
いわれていたようだが、一分というのはそれよりも高価。
さらに、どうでもよいが、一分は現代の一万六〜七千円程度の
イメージである。



こっそりとして山猫は人を喰い




なんという、川柳もあったようである。
こっそりあった、のであろうか、、、。



(参考:雑排川柳・江戸岡場所図絵)




※2:東京の花柳界について


昨日から、花柳界、あるいは、花街、(はなまち、かがい)という言葉を
使ってきたが、ご存じのない方もおられると思うので、
念のためもう一度ここで、なにものか、を、簡単に書いておきたい。


花街というのは、昨日、“制度化したもの”というように書いていた。
これは花柳界、あるいは、花街というものが、お上からきちんと
定義をされ、許可されていたもの、であった、ということなのである。


今でいえば、風営法というようなものになろうが、
お上は、昔から、禁止をするのではなく、枠をはめ、
管理をしようとしてきた、のである。
これは、江戸の頃も同様であるし、明治になってからも、
そして、今もっても、そうである。


今いっている、花柳界、花街というものは、
三業地というようないわれ方をしてもいた。


三業とは、芸者置屋、待合、料亭、の、文字通り、三つの業。
芸者置屋は、芸者さんのいるところ。待合は、座敷を提供する。
料亭は料理を作る。
花街は、実は、この三つの業態に分かれて成立していたのである。


細かいことをいうと、東京と京都、大阪など、関東と、関西。
あるいは、地方によっても仕組みや呼び名が
違っていたり、または、待合と料亭が一緒になっていたり、
様々なバリエーションはあるのだが、基本はそういう仕組みであった。


それぞれの業が警察から許可を受けて、地域も決められ、
商売ができる、ということになっていたのである。


そして、三つの業態とともに、制度化されていた、ということの
もう一つの大事な意味は、“芸娼分離”ということであった。


“芸”は芸者さん、“娼”は娼妓、いわゆるお女郎さんのこと。
逆の言い方をすると、一般には、芸者さんと、
娼妓は分かれていなかった、というのが本当のところだったのである。


明治に入り、吉原など、いわゆる遊郭は明確に禁止されもせず、
事実上、黙認、存在しているという状態。


そして、江戸から続いていた岡場所と新たに、明治になって開けてきた、
岡場所のような遊所が何ヶ所もでき、明治になっても引き続いて、
存在をしていた。


こうしたところは、飲食だったり、いわゆる踊りや三味線という
芸が主なのか、“もう一つの商売”が主なのか、よくわからない
ところだったのである。
(それを隠蓑にしていた、ということも、むろんあったのであろう。)
明治のお上は、こうしたものを管理下に置くために、
芸者と娼妓とは分けて三業地というものを制度化していった。
(ただ実態が分離されていたかどうかは、また別の問題ではある。)


京の花街、または花柳界は、とても大雑把には
こんな成立と初期の経過を取ってきた、のであると
考えている。


(東京でも、どこの花柳界でも十把一絡げに同じかといえば、
そうでもなかったのも事実だとは思われる。
例えば、新橋と、五反田で同じかといえば、
値段も格もシステムも違っていたことは
間違いなかろう。)


そしてさらに、新橋なのか、神楽坂、向島
詳細にはわからないが、政財界や、文化文芸界などを
客筋に持つハイクラスの花柳界が、様式美を身に付け、
優美で格調高い、今語られている、お座敷遊びの世界を
おそらくは、京都などからも移植したのであろう、
形作っていったのだと考えている。


そんなこんな。
花柳界=江戸の雰囲気、というのは(東京に限っていえばだが)
違うのですよ、ということがいいたくて、こんなことを
長々と書いてきてしまった、のではある。



なぜここに、こだわったのか。
その動機は、実のところ、落語なのである。


私のもう一つのホームグラウンドである、落語からみた
花柳界について書いてみたい。


前にも書いており、落語をご存じの方はお分かりであろうが、
落語の中に、遊郭である吉原や、新宿、品川といった四宿は
いやというほど、登場する。
しかし、芸者さん、いわゆる花柳界というものは、ほとんど登場しない。
(野ざらしで有名だった春風亭柳好のものを聞いたことがあるが
立ち切り、という噺くらいである。これも、上方が元の
噺ではないかと思われる。)


これは、なぜであろうか。
あれだけ、大正、昭和と隆盛を極めた、花柳界なのに、落語には
ほとんど登場しない、というのは不思議であろう。


今、はっきりした結論を私は持っているわけではない。
あくまで推測であるが、二点書いてみたい。


まず一点は、東京では花柳界の成立よりも落語の方が古いということ。
むろん明治以降に生まれた噺も少なくはないのだが、
落語の成立は江戸時代の文化文政期で、花柳界全盛の大正期よりも
ずっと以前で、この頃には既に多くの噺が固まっていたことは
間違いはない。よって、花柳界は落語には登場しなかった。


二点目は、落語の主とした聴衆である東京下町人には、
花柳界はあまり縁がなかったのではないか、ということ。
いや、もう少しいうと、東京下町人は花柳界が、
嫌いだったのではないか、と、思うのである。


じゃあ、誰が、あれだけ、東京花柳界を盛り上げたのか、
ということが疑問になろう。
それは、明治以降、地方から出てきた人々だと思うのである。


実のところ、これは一点目に比べて、
我ながら、根拠がそうとうに希薄である。


わずかながらある根拠を述べてみると、
池波先生。


先生が通ったのは、花柳界ではなく、吉原。
当時は、戦争前の昭和初期。花柳界も十分に栄えていたはずである。


先生は、まったく、芸者遊びをしなかったのかといえば
そうでもなかろうが、ご自分でも書かれているのは、
先生は、十代の株屋の小僧時代、儲けた金を、ドーンと
吉原のある店に預け、そこ一本に、通った、ということ。


これは、私の直感である。
どうも、江戸人の血を引く、東京下町人は
こうした遊び方を好んだのではないか、ということ。



さて、ここまで読んでいただいた方は、私がなにを書きたかったのか、
おわかりいただけたかもしれない。


もう既に、過去のもので、昨日書いた、向田邦子の「あうん」だったり、
森繁の映画、社長シリーズなどにも出てくる、東京の花柳界なるものに、
なぁ〜んとなく、郷愁も、親しみもあまりわかない、というのが
ほんとのところなのである。