浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



市谷左内町界隈と、麺や庄の その1

dancyotei2008-04-20



4月18日(金)夜


さて、一週間が終わった。
20時半、オフィスを出る。


外は、雨。
今日は一日雨であった。この時間は少し風も強い。


腹も減ったし、左内坂のラーメン屋、庄の、にでも
寄っていこうか。


防衛省の裏門、左内門の前を折れ、直進。
左内坂を降りていく。


さて、この界隈の少し大きな地図。




まず気が付くのは、現代の道路の配置と基本的には変わっていないこと。
(現代の地図を一緒に見てみていただきたい。)


左内坂があり、大きな尾張藩の屋敷があり、右に折れ、中根坂がある。
また、旧日本育英会(現日本学生支援機構)が角にあって、
外苑東通り市谷仲之町の交差点にまっすぐ抜けている通り、
それから左内坂のもう一本右側、外濠通り、
現在スーパーのポロロッカのある角から、長延寺坂、
大日本印刷の工場を通り、中根坂までつながっている通り。
これらは、ほぼ、江戸のまま。


地形的にいうと外濠は谷で、左内坂上にむかって台地。
防衛省靖国通り側は低く、奥に向かって、台地。


そして、さらに、長延寺坂(谷)の通りが、谷、で
その向こう側(この地図で右側)の鷹匠町、納戸町側は
また台地、になっている。
このため中根坂は、下って、上がる坂になっている。
むろんこれは今でもそうだが、このあたり、崖や、階段、坂が多く、
かなり複雑な地形になっている。
(この地図にある、安藤屋敷は右側は谷である。
このため、屋敷の中に、急な坂や、崖、階段があったと
思われる。)


左内坂というのは、現在でもかなり急な坂である。
大雪でも降ると滑って、たいへんなことになる。
麺や庄のは、左内坂を降りていくと、坂の途中右側、ビルの1階。


さて、まずは、左内坂の左内の由来。
これは江戸の地名によくあるが、この地を開いた名主、
島田左内、という人の名からという。


そして、江戸の地図で坂下に向って左側に
「定火消御役屋敷」というのが見える。


定火消というのをご存じの方はどのくらいおられるであろうか。


じょうびけし、と読むわけであるが、
まず、江戸時代の、火消し、と、いえば、いろは四十八組で有名な
町火消し、が思い浮かぶ方が多かろう。


町火消しは、現代では、私などの住む東京下町のお祭り
などでは、馴染み深い。祭りなどの各種町内行事の裏方、
門松や注連縄を作ったり、と町の鳶(とび)、として。
あるいは、正月の消防出初式の梯子(はしご)乗り等々の
江戸消防記念会として、今に続いている。


しかし、この江戸町火消しができるのは、実は江戸も
ずっと時代が下るのを待たねばならなかったのである。


江戸初期の頃の火消しのこと。


江戸開府当時、一応のところ、幕府では、旗本2名を頭とする
定火消という制度を設けていたようである。
しかし、広い江戸市中、これではまったく足らず、火災のつど、
奉書火消(ほうしょびけし)、といって、
大名に臨時の役目として、消火を命じていた。
これは、歴史の教科書にも出てきたような記憶もあるので、
言葉を聞いた方もあるかもしれない。


その後、これを定役として、16の大名に命じた。これが
大名火消し、といわれている。
かの、討ち入りで有名な、赤穂藩は大名火消の役を
命じられていたという。


これは池波先生も書かれていたような記憶がある。
(確か、大石内蔵助を書いた「おれの足音」であったか)
浅野内匠頭はこの火消し、というのがどうも、
好きであったらしく、今でいう、避難訓練というのか、
赤穂藩江戸屋敷では、夜中でも藩士をたたき起し、
頻繁に、火消しの演習を行っていたというようなことが
書かれている。


しかし、それでも火事の多い江戸の町、かの、江戸中を焼き尽くした、
明暦の大火が1657年に起こった。


そして、その後に、定火消が強化され、頭を4人の旗本、
飯田橋お茶の水、麹町、そして、この市谷の
4か所に火消屋敷を置いた。(その後1704年には10組になっている。)
定火消には、組頭の旗本以下、4人の与力、30名の同心、
その下に、臥煙(がえん)という火消人足おり、
その火消屋敷に100名程度が常駐していたようである。


この定火消は、実は、落語にも出てくる。
火事息子、という噺。


余談ついで少し触れておくと、
ある大店の息子が、粋でいなせな、火消しに憧れ、
なりたい、という。
しかし、むろんのこと、親は許すはずもない。
江戸中のいろは四十八組、町火消しに回状を回し、若旦那は
どこへいっても、門前払い。
勘当された若旦那は、しかたなく、定火消の臥煙になってしまう。
あるとき、この親の店が火事になる。
すると、この臥煙になっていた息子が消しにきてくれて、
親子の再会を果たす、という、
ちょっと人情噺めいたものである。


ここでは、いわゆる町屋の火事に臥煙が関わっているが、
一般的には、定火消は武家屋敷などの消火が主で、あったという。


そして、江戸町火消しは、やっと、吉宗の頃、
亨保3年(1718)に大岡忠相の命により、町方の火消し組織として、
組織されたのであった。


毎度の、長い余談である。
江戸火消し史概観のようなことになってしまった。


この界隈はもう一つ、ふれなければならない、
市谷亀岡八幡というのもある。



なかなか麺や庄の、にたどり着かないが、明日ももう少し、
お付き合いいただければ、幸いである。