浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



天ぷら・三筋・みやこし

dancyotei2008-04-10

4月5日(土)夜


引き続き、土曜日。
内儀(かみ)さんの母親が、北海道から出てきている。


夜は、天ぷら、ということになってた。
元浅草の拙亭からも目と鼻の先、三筋の、みやこし


歩いて、5分程度であろうか。


駅でいえば、大江戸線の、新御徒町と蔵前の間で、
真ん中よりは、蔵前寄り。
春日通りの南側。新堀通りの西側。


三筋、というのは、江戸からある地名、で、ある。


町名ではなく、地名と書いたのは、町名ではなかった、からである。
ここは武家地で、幕府の大番組与力同心、
書院番与力同心の組屋敷があった。


三筋というのは、文字通り、その屋敷地に
南北に三本の筋(道)が通っていたから、で、ある。
今は、三本以上の路地があるが、以前の三本の路地は
ほぼそのままの位置にあるようである。


武家地であるから、毎度書いているように、町名はなかった。
町とは、町人が住む、文字通り町屋があるところのことで
町人が住む場所にしか、正式には町名はなかったのである。


ただし、これは正式に、というだけで、
実際には、このあたりをなんというか、という
呼び名がなければ、やはり、不都合であったからであろう。
通称(里俗○○といった)として町名があり、地図にも書かれていた。
ご存じの御徒町も同様である。
幕府御徒組の組屋敷であるので正式な町名はないのだが、
やはり、下谷仲御徒町などと呼ばれていた。


三本の筋は、西から、三筋町西之町、同仲之町、同東町、
といっていたようである。


明治に入り、正式に、三筋町という名前をもらい、
浅草西三筋町、同東三筋町、そして、江戸の頃の
三筋町、ではないが、隣接する北側が同北三筋町となった。


北と南の二町の境は、今、三筋湯という銭湯があるが、
その路地。


その後、北三筋町は、真横に春日通りが通り、
いわば、春日通りによって、南北に隔てられていた。


戦後、この春日通りから北は、元浅草になり、
三筋は、南側だけに残った、という格好である。


さて。
6時半、3人で、出かける。


場所は、先ほど述べた三筋湯の少し南。


入って、カウンター、角をはさんで3人で座る。


ご主人は湯島の老舗、天庄で修業をされた方。


生ビールをもらい、一番上の、天ぷら定食A、3675円也にする。


お通しは、そら豆。





まずは、定番、さいまき海老、から。





最初は、塩でたべてみてから、天つゆ。
しこしこで、うまい。


頭。





これは塩で。



続いて、きす。





天ぷらも鮨同様、べちゃべちゃと、喋っていてはいけない、


揚げてくれて、目の前に置かれたら、すぐに食べる。



白魚。




白魚というのは、一年魚で、春に成魚になり産卵するという。
そういう意味では、この時期が最も大きいのであろう。


ご存じの通り、以前は江戸前のものもあった。
頭の部分が、徳川家の紋所である三つ葉葵に見えることから
佃の漁師があがったものを献上したともいう。


また、歌舞伎「三人吉三廓初買」(さんにんきちさくるわのはつがい)の
「大川端の場」お嬢吉三の名台詞。



月も朧(おぼろ)に白魚の 篝(かがり)も霞む春の空


冷てえ風もほろ酔いに 心持ちよくうかうかと


浮かれ烏のただ一羽 ねぐらへ帰える川端で


竿の雫が濡れ手に泡 思いがけなく手に入る百両


ほんに今宵は節分か 西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落とし


豆沢山に一文の 銭と違って金包み こいつぁ春から縁起が良いわい



大川端で、夜、篝火を焚いて、四つ手網で獲ったようである。
(関係ないが、どうも私は、この調子のよい七五調というのが
好きである。DNAに刻み込まれているのであろうか。
声に出して読んでみると、実に気持ちがよい。)


ともあれ、「こいつぁ春から縁起がいいわい」という通り
これは節分の頃である。やはり、春の魚、ということである。


またまた、季節のもの。
若鮎。





少し前、例の静岡のおでん屋でもあった。
もう、そんな季節である。


穴子





さっくりと、うまい。



野菜。





小玉ねぎ、茄子に、しし唐。



しあげは、小柱のかき揚げを天丼に。





うまかった、うまかった。
大満足、で、ある。



やはり、歩いて数分の近所で
これだけきちんとした天ぷらを、それも、そこそこの値段で、
温かいサービスで、食える、というのは、幸せなことであろう。





東京都台東区三筋2-5-10
TEL 03-3864-7374



みやこしHP