浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



神田駿河台下・カレー・エチオピア

4月21日(土)昼


さて、土曜日。
今日は、少しばかり、仕事を片付けに、オフィスに行かねばならない。


よい天気である。気温も上がるようだ。
自転車でいこう。


昼飯は、どうしようか。
途中、どこかでたべよう。


拙亭のある、元浅草から、オフィスのある、牛込市谷まで。
距離的に、真っ直ぐいくのであれば、通勤に使っている、
大江戸線沿いに行くのが近いのであるが、
このルートは、坂がある。


まあ、東京は、下町から山手へいくには坂が必ずある。
牛込は山手である。最後は坂であるのだが、
大江戸線は、本郷の台地を通っている。
これを登って、降りるのは、自転車では往生する。
つまり、ルートとしては、上野御徒町から、本郷三丁目
本郷台地を通り、春日へ降り、飯田橋
これが距離としては近いのだが、迂回をする。


この台地を迂回すると、神田まで回ることになる。
本郷台地は、御茶ノ水神田川を越えて、駿河台まで
続いているのである。


元浅草から、秋葉原昌平橋を渡り、靖国通りを通り、
駿河台下から、水道橋方向へいくと、坂はまったくなく、
市谷方面へいけるのである。


この途中、なにを食おうか。
暖かくなってきたから、駿河台下のカレーや、エチオピアへでも
久しぶりに行こうか。


前回05年9月


さて、駿河台。


江戸の地図。





このあたり、江戸の頃は、町屋はほとんどない。
大名屋敷も多くなく、ほとんどが、旗本屋敷である。


むろんお茶の水の駅はないが、昌平橋があり、神田川沿いに聖堂があるので、
なんとなく、今の地理と重ねられるかもしれない。
聖堂のとなりの川沿いの道に、ヲチャノミズ、と書いてある。
この対岸が駿河台、ということになる。


駿河台の名前の由来は、江戸初期、
大御所徳川家康は、ご存知のように、駿府城で亡くなった。
この家康についていた家来たちが、江戸に戻り、
駿河衆と呼ばれ、このあたりに屋敷を与えられ、
駿河台、と、呼ばれるようになったようである。


今の、靖国通りは、ちょうど、「土屋釆女」の屋敷の南側。
今、駿河台下の交差点の東側、靖国通りがカーブをしているのが
このあたりである。
ちなみに、このカーブは、ちょうど、駿河台の裾野になっている。
(つまり、ここが自転車で通るルートでもある。)


明治に入り、駿河台下は、小川町となる。
現代でも小川町三丁目。
都営新宿線小川町駅が一丁目、もっと東側にあるので、
ここが小川町といわれると、ピンとこないが
ここまで、小川町、で、ある。
(ちょうど、「土屋釆女」の屋敷が小川町の範囲になっている。)


カレーや、エチオピアは、駿河台下から、お茶の水へ向かって、
坂を少し上った、左側。
小さな店である。


一階は、カウンターのみ。


入ると、食券の販売機がある。


ノーマルなビーフカレーにする。


生憎、満席だが、回転は速い。
すぐに、座れる。


辛さの指定を聞かれる。
5倍にしてみる。


まず出てくるのは、茹でたじゃがいも。



バターが添えられている。


このように茹でたじゃがいもが出てくるカレーやは
他にもあるが、どこが初めであろうか。
神保町のボンディーであろうか。


ビーフカレー



グローブが効いた、さわやかなカレーである。
5倍程度でも、そこそこ辛い。


自転車で走ってきて、汗をかいたが、
また、汗が、噴出してくる。


うまい、カレー、で、ある。


食べて出る。



ここから、牛込市谷まで。
猿楽町、神保町、西神田、白山通りを渡り、三崎町、
日本橋川を渡り、飯田橋
外濠通りに出て、神楽坂下、市谷田町、市谷、で、ある。


元浅草から、市谷まで、真っ直ぐ来れば、30〜40分。
よい汗をかいた。







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