浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



浅利のぶっかけ

4月16日(月)夜〜翌朝


このところ、暖かい日が続いていたが、
どうしたことか、今日は雨で、寒い。
冬に戻ったようである。


温かいものが食べたい。
この時期では、なんであろうか。


自分の池波正太郎ページなどを見てみる。


このページに載せていなかったのだが、
「浅利のぶっかけ」。


昨年、5月。雑誌IPPOの取材で作ったもの。


これにしよう。
春は、基本的に、浅利はまだ旬といえなくもなかろう。


作品は、剣客商売


場所は、深川島田町。鰻売りの又六、と、母、おみねの住む裏長屋。
大治郎に、おみねが、この「ぶっかけ」を出す。


『いまが旬の浅利の剥き身と葱の五分切を、


薄味の出汁もたっぷりと煮て、


これを土鍋ごと持ち出して来たおみねは、


汁もろともに炊きたての飯へかけて、


大治郎へ出した。』



大根の浅漬けで、大治郎は四杯も食う。



待ち伏せ (新潮文庫―剣客商売)
池波正太郎著 剣客商売9・待ち伏せ 新潮文庫



江戸の地図






この地図では、町名は入船町となっているが、
ここが島田町、で、ある。


現代は、木場二丁目。
東側は、木場、今は公園となり、東京都現代美術館がある。
西側が平久川。南側も掘割で、四方を水に囲まれたところである。
南側、堀の向こうが、入船町、今いう、永代通りがあり、大横川。


その南はもう海辺で、江戸湾であった。
この地図で、右下に「スサキ弁天」とある。
洲崎(スザキではなく、スサキと、発音は濁らない。)といえば、
映画にもなっているが、洲崎パラダイス、
遊郭を思い浮かべる方も多かろう。
しかし、江戸の頃のこのあたりは、海に面した景勝地
料亭などもあるような場所であったが、
いわゆる、遊郭ではなかった。
前に書いた、大田南畝先生などもここの料亭に、
よく足を運んだようであったが、眺めがよいので、
正月元旦の、初日の出といえば、洲崎で、
いわば、風流の地であった。


洲崎がいわゆる、遊郭となるのは、
明治20年頃と意外に新しい。
根津の遊郭が、東大がそばにあり、風紀上よろしくない
ということで、洲崎へ移転した、ということである。


洲崎はともかくとして、深川島田町といえば、
木場の隣、江戸湾も間近の町。


木場の向こうは、なんにもない原っぱの
埋立地である、六万坪。場末とまではいわないが、
鰻の辻売り親子の住む場所としては、それらしい場所
なのであろう。


そこで出される、浅利むき身の「ぶっかけ」。
今の、深川名物、深川飯、あるいは、深川丼の原型。


会社帰り、スーパーで浅利むき身。
1パックしかないので、殻付きの普通の浅利をもう1パック。
それから、安くなっていたので、鰹の刺身も。


帰宅。


作る。
と、いうほどのものでもないが、
まずは、殻付きの浅利の殻を取らなくてはいけない。
生のままむき身にする技術は筆者にはないので、
これは、火を通して、開いたところで、取る。


鍋にヒタヒタ程度に水を入れ、加熱。
口をあけたら、すぐに火を止める。


殻から身を外すのは、ちょっとした技がある。
どうするのかというと、空いた殻をピンセットのように使い
はさんで、むしる、のである。
おわかりだろうか。
プロのイタリアンのシェフがいっていたやり方である。
一つ一つ取るのはかわりないのだが、
そこそこ、きれいに、能率よく取れる。


茹で汁に、むき身を入れ、加熱。
煮立って、火が通ったところで、先の殻を取った
浅利を戻し、1cmほどに切ったねぎも入れる。


作品は「薄味の出汁」としてあり、しょうゆ味
のようであるが、筆者の場合、浅利のぶっかけは、
味噌の方が、好みである。
浅利で、味噌というと、なんのことはない、浅利の味噌汁ではないか、
といわれると、その通りである。
しかし、薄味のしょうゆで、作ってみたこともあるが、
浅利というのは、苦味があるので、やはり味噌の方が、うまい。


ねぎが柔らかくなってきたら、味噌を入れる。
(普通の信州味噌。)


完成。これで、呑むため、飯はなし。





ビールを抜いて、鰹の刺身も出して、食べる。
なんということもないが、これがなかなかに、うまい。
ねぎも、また、よく合っている。
汁ものであるが、十分につまみになる。



さて、翌朝。


文字通り、ぶっかけ、にした。





朝から、飯を多量に食ってはいけないと、
つゆが、多めであるが、ぶっかけ、で、ある。
時間が経ち、ねぎが、クタッとしているのが、また、うまい。


今の、お洒落になってしまった、深川飯とは
似ても似つかず、かなり、品のない食い物であるが、
こうしたものが、うまい、のである。