浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



元浅草から、両国まで。その1 両国・山くじらすき焼・ももんじや

dancyotei2007-02-18

2月12日(月)祝日 夜


今年の干支(えと)にちなんだのであろう、なにかで読んで、
少し前から、猪鍋を食べたかった。


猪鍋といえば、このあたりでは、両国の、ももんじや、であろう。
むろん昔から知っていたが、食べにいったことはなかった。


日曜はここ、休みであるが、祝日はやっている。


6時頃、TELをしてみると、かなり混んでいるらしい。
7時頃ならいいでしょう、ということで、予約をする。


拙亭から、両国までは、大江戸線でもよいが、
大江戸線両国駅は、清澄通り沿いで、
両国橋の東詰めにある店までは、随分ある。
大江戸線から総武線両国駅まで乗り換えようと思うと、
とんでもなく歩かされるのである。)


そのくらいであれば、最初っから、いっそ歩こうか。
6時半頃、内儀(かみ)さんとともに、家を出る。


例によって、筆者は、ぶつぶつと、稽古をしながら、である。
(そんな男と、夜、暗闇を歩くのは、内儀さんも災難である。)


江戸の地図




元浅草から、南下、三筋の裏路地を歩く。


鳥越神社にいきあたる。


鳥越神社


毎度書いているが、ここは氏神様である。
初詣、祭り、と、やはり、最も馴染みの深い神社である。


祭り


初詣


筆者の四十二の厄落しには、前後あわせて、
都合三年間、年始にお祓いもしてもらったり。


さほど、大きな境内ではない。銀杏の木があり、初詣にいくと、
ぎんなんの実がもらえる。


鳥越祭りは神輿の楽しみもあるが、
このあたりの狭い路地にびっしりと、露店が出て
その密度と量に、四十を超えた筆者でも、
なにか、うきうきするものがある。


この神社付近の町名は、鳥越。神社があるのが、二丁目。
そして、この西、一丁目には、おかず横丁といって、
下町らしい、お惣菜を売る店がずらっと並ぶ、一筋の狭い横丁がある。


朝日新聞「ぶらり下町商店街」おかず横丁編


鳥越の名前は、神社が先なのか、地名が先なのか、定かではないが、
古いようである。やはり、江戸開府の頃には、既にこのあたり広く、
鳥越村、であったようである。


鳥越、三筋の東隣は、蔵前。
蔵前は、誰もが知ってる、江戸幕府米蔵のあった場所。
と、いうよりも、その蔵の前の町であるから、蔵前。


正確には、御の字をつけて、御蔵前。
江戸の頃は、幕府関係のものはすべて、
御の字をつけていたからである。
台場ではなく、御台場。徒町ではなく、御徒町、、、。


さて、蔵前の細かい話を書き始めると、また、長くなりそうである。
ひとまず、蔵前とその周辺については、
またの機会に譲るとして、今日は、裏通りをたどって、先へいこう。


蔵前橋通りを渡ると、町名は、浅草橋、と、なる。


そうである、一つだけ、蔵前の話。
蔵前橋通り、という通りの名前で思い出したことがある。


昔は、蔵前を北上している表通りのことを、蔵前通り、と呼んでいた。
今は、江戸通り、という名前がついている。
このことを、池波先生は、いたく憤慨されていた。


蔵前橋ができ、蔵前橋を通る通りを、蔵前橋通りと呼ぶことにした。
そして、以前の、蔵前通り、との混同を避けるためにであろう、
江戸通り、という名前を、旧蔵前通りに付けた。


池波先生は、「蔵前橋通りだか、なにかは知らないが、
江戸通り、なんて野暮な名前を付けやがって、
あの通りは、江戸の昔から、御蔵前を通るから、
“蔵前通り”である」、と、いうことなのである。


ともあれ、蔵前橋通りを渡ったところ、浅草橋三丁目。
旧町名では、福富町。


上の地図でもわかるが、
このあたりに、江戸の頃、天文台、が、あった。
幕府の正式な呼び名は「頒暦所御用屋敷」というらしい。
暦を作る、というのが仕事で、そのために、正確な天体観測をした、と、
いうことなのである。
あの、伊能忠敬もここで仕事をしていたようである。
(明治に入り、この跡地が空き地になり、天文(ノ)原、とも
いわれていた時期があったようである。)


そして、天文台の南に、鳥越川が流れていた。
鳥越川は、佐竹の東、小島町の三味線堀から
今の清洲橋通りを南下する。
今の地図で、蔵前橋通りを左折、一つ目の信号を右折、
一つ目の路地をすぐ左折。
あとは道なり。浅草橋三丁目の真ん中を横切り、
“蔵前通り”の下を通り、幕府の米蔵を通り、隅田川につながっていた。
(蔵前通りの、鳥越川にかかる橋は鳥越橋と呼ばれ、二本かかっていた。
鬼平にもずばり、「鳥越橋」という一遍がある。)


今のこのあたり、おもちゃやら、アクセサリー、雑貨、文具、
人形、、などなど、様々な問屋さんのある、オフィス街、で、ある。
稽古中でもあり、ずっと、裏通りを通る。
祝日のこのあたり、この時間、人通りは少ない。


鳥越川の南、浅草橋二丁目が、猿屋町。
この名は、江戸初期、この界隈に猿引(猿回し)が
住んでいたから、だという。


二、三の武家屋敷があり、
その南が福井町と、新福井町。
福井町の名の由来は、江戸初期、福井藩邸があったから。


総武線浅草橋駅下をくぐる。このあたりも
タオルやら、の問屋さんなど、ある。


右側が旧左衛門町。
神田川に掛かる、左衛門橋に名が残っている。


左衛門橋から拙亭のある、元浅草を通り、言問い通りまで、
北へ、左衛門橋通りが通っている。
この前も書いたが、左衛門橋の名は、出羽庄内十四万石、
酒井左衛門尉(さえもんのじょう)下屋敷があったことによる。
橋ができたのは明治以降。


左衛門町は、実は、明治になって、その隣の平衛門町にちなんで
当初、新平衛門町、と、いう名であったらしい。
しかし、ところの人々は、元々のここの主の名である、左衛門町と
呼ぶようになり、明治23年に正式な町名となったようである。


神田川手前で突き当たり、左折。
このあたりは、その上平右衛門町。
この平右衛門は、この町を開いた、江戸初期の名主の名だという。


江戸通り、こと“蔵前通り”に出る。


信号を渡り、右にいくとすぐ、浅草橋。
北詰を左に曲がり、川沿いの道をいく。


暗い川面には、屋形船がたくさん繋留されている。
静か、である。



ぶつぶつ、いっている稽古の声が少し大きくなる。




参考:下谷浅草町名由来考 台東区



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今日はここまで。続きは、また明日。