さて、今日も、昨日の続き。
2月10日(土)第一食、田端の路麺、かしやま、から。
昨日までかかってしまった。いっそのこと、今週は、これで
いってしまおう。根岸から、今日は坂本へ。
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根岸、鶯谷の料理専門学校の脇を抜け、JR線路際から、通りに出る。
通りの向こう側、目の前に、上野郵便局がある。
この通り、今は道幅は広いが交通量はさほど多くない。
これが、昔の三ノ輪へ向かい、旧奥州・日光街道になる通りであり
市電(都電)の走っていた、いわゆる電車通りであった。
今は、昭和通りにその役目を譲っている。
今、一般には金杉通りという。
(昭和通りは名前の通り、むろん、できたのは昭和に入ってから。
震災後のことである。)
ここ、根岸の東隣、下谷坂本町といった。
現在の町名は、この通りの東側が、ただの下谷。
ここが一丁目。通り沿いに北へ、三ノ輪の手前まで、三丁目まである。
ご存知の通り、下谷という名前は、もとは、区の名前。
そして、神田の北からこのあたり、そして竜泉、あたりまでを含んだ
広い地域の名前でもあった。
以前の下谷坂本町は、現在の下谷二丁目、柳通りまでで、その先は
今はなくなってしまったが、金杉、という町名であった。
そして、今、この通りの西側はすべて、根岸であるが、
以前は、道の両側が坂本町で、さらにその西側の裏通りには
箪笥町という名の町があった。
ここには指物師達が多く住むところでもあったようである。
その関係で、昭和通り沿い、今の入谷の交差点あたりには、
最近まで「ハヤミズ家具センター」をはじめ、
いくつもの家具屋さんがあった。
坂本は、池波作品にもよく登場している。
鬼平にも、梅安にも、その他の作品にも。
下谷坂本四丁目、小野照崎神社前だったりもしたか、
鮒宗という名前で、安い居酒屋・川魚料理の店。
梅安で、小杉さんが近所に住んでおり、行きつけ、だったっけ。
その、小野照崎明神。
おのてるさま、と、呼ばれ、五月のお祭りは、やはり盛んである。
筆者らの鳥越や下谷神社のちょうど北隣、この日記ではお馴染みの
合羽橋の太助寿司のある、松が谷の北あたりまで、氏子町内で、ある。
(太助寿司のあたりは、矢先神社、で、ある。)
さて、坂本の東は、入谷、になる。
そもそも、入谷、というのは、江戸の頃は、
正式な村や町の名ではなく、坂本の東側を通称する名前で
あったようだ。
入谷田んぼ、といわれていたが、江戸の初期は、池や沼、
そして、段々に田んぼになり、明治になっても
田んぼは残っていた、と、いう。
入谷といって、最も有名なのは、朝顔市、と鬼子母神であろう。
おそれ入谷の鬼子母神、と、いう。
(この「おそれ入谷の鬼子母神、、」は、もとは、蜀山人から
きているという。未確認だが、
「おそれ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師さま」
というのが蜀山人の元歌で、それを庶民がアレンジし、
びっくり下谷の広徳寺、うそを築地の御門跡、をつけた、
というのである。これも筆者の調査課題、としよう。)
ともあれ、ご存知のように、
毎年、7月の6、7、8日に朝顔市が開かれる。
鬼子母神の前の、言問い通りには
朝顔を売る屋台がずらっと並び、たいへんな人出、で、ある。
筆者なども、土日であれば、出かけてみることもあるし、
時期になると筆者の住む元浅草の、町内の門々にも、
鉢植が、置かれていたりもする。
(忙しいと、それで、「ああ、そんな時期なんだ、、」と
気が付いたりもするのである。)
入谷から出る朝顔の車かな
銭湯で聞く朝顔の噂かな
子規
(むろん本物)
鬼子母神様の現在の町名は、入谷ではなく、下谷一丁目である。
(先に述べたように、金杉(坂本)通り沿いだけが坂本町で、
鬼子母神さまはもともと入谷町であった。
場所が変わったのではなく、町名が変わったのである。)
ここの朝顔の、もともとの起源は、下谷御徒町、下級武士であった
幕府の御徒組の人々の内職であったという。
それが、明治に入り、このあたりの
植木屋に受け継がれ、栽培が盛んになった、ということらしい。
さて、話が、あっちこっちへいってしまい、
いったいなんの話であったの、、書いていても忘れてしまった。
元浅草の拙亭に帰らなければならない。
坂本、入谷、そして、拙亭に帰るには、このあたりからなら、
どういってもよいのだが、とりあえず、この坂本の通りを南下する。
坂本の隣は、下車坂町という。
このあたりに市電(都電)の車庫があったという。
車坂町は、今の上野駅前あたりから、この坂本の南まで、
JRの線路際、ようは、上野の山の麓が車坂町であった。
(正確には、上野駅前が下谷車坂町、その北が上車坂町、そのまた北が
下車坂町であった。)
車坂の名は、今の上野駅の公園口、あたりから
上野の山へ登る坂が車坂、といったことに由来するようである。
その下車坂町、現上野七丁目から昭和通りを渡り、
(この通りは、太助寿司の前、合羽橋、さらに浅草六区、
国際通り、まで続いている、かっぱばし本通り、と、いう。)
東上野四丁目、五丁目、六丁目(万年町、神吉町、北清島町)
左衛門橋通りを南下、浅草通りを渡り、元浅草、で、ある。
(やっと帰ってきた。)
長かった。
参考:「下谷浅草町名由来考」台東区
「古老がつづる台東区の明治・大正・昭和2」
台東区教育委員会編
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とうとう、一週間、田端から、元浅草までの町々を
書いて終わってしまった。
むろん、調べながら書いているわけであるが
書いていると、次々と、疑問が出て、
また調べる。特に、ネットで調べる以外にも
今回は、「古老がつづる・・」などは原文にあたらねば、
と、例の池波正太郎文庫のある、区の図書館でも
調べたりもした。
個人的には、やはり、根岸の花街と、鶯谷駅前のラブホテルの関係が、
大きな疑問であったのだが、こうしたことは、表の歴史ではなく、
まさか、台東区のホームページには載るわけもない。
「古老がつづる・・」でやっと発見したが、それでも
全貌はわからない。そんなところであった。
台東区もまだまだ広いし、今まで、あえて、書かないようにしていた
谷中、根津、千駄木(谷根千)など、書き始めたら
きりがなさそうである。あるいは、ずばり、浅草、、。
(書けないことも多いかも、、。)
最後にまったく、今さらながらの、蛇足であるが、
念のためお断りをしておきたいことがある。
筆者の書いている、内容は、誤り、は論外とするが、
あくまで、筆者の選択によって、書いている。
つまり、その町のことで、書いていないことも多々あるし、
また、見方、とらえ方、はあくまで、筆者の趣味であり、主観であり、
また主張でもあり、偏っているところも多分に存在している。
(ある意味、断腸亭錠志の「表現」として書いている。)
この点で、誰が読んでも公平無私な、地域の歴史の教科書のようなものを
標榜していないことを、申し述べておきたい。
※引き続き、募集!!
「○○○○○
根岸の里の侘び住まい」
の上(かみ)五文字、を募集いたします。
賞品はないかもしれませんが、傑作は、ここで発表いたします。
ふるってご応募、お待ちしております。
断腸亭
ysaka01@attglobal.net まで