さて、今日も、昨日の続き。
2月10日(土)第一食、田端の路麺、かしやま、から。
思いがけず、4回に渡ってしまった。昨日は、根岸の途中まで。
さて、今日は、完結するのか?
※お知らせ
東京FMの取材は、先方都合で、来週に延期になりそうです。
(21日(水)6:50〜のようです。)
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さて、根岸。
江戸の頃は、ご存知の通り、大店の寮(別荘)やら、妾宅やらある、
風雅の地。明治もこの雰囲気は続いていった。
妻よりは妾の多し門涼み 子規
(これは本物)
そして、明治末から、大正にかけてであろうか、
いわゆる花街として発展していく。
大正11年の数字では、料理屋23軒、待合17軒、芸者置屋35軒と、
花柳界として、押しも押されもせぬ存在に、なっていたようである。
(「花街」加藤正洋氏、より)
(「古老がつづる台東区の明治・大正・昭和2」台東区教育委員会編
(昭和55年発行)の古老からの聞き書きでは、大正10年頃から、という
記述も見えるが、いきなり、料亭23軒は疑問かもしれない。)
実際のところ、どのあたりがそうであったのか、
今、筆者は詳細な知識を持っていないが、
例えば、香味屋
などのある、柳通りあたりの町並みに、そんな雰囲気を感じさせる。
界隈にある、御行(おぎょう)の松
松一本根岸の秋の姿哉 子規
(これも本物)
根岸御行の松、といえば、筆者など落語ファンには、
「お若伊之助」を思い出す。
伝)圓朝作。
おかしくもあり、また、おどろおどろしくもあり、
また、悲しい。なかなか好きな噺である。
(やはり、圓生師、以外ないでしょう。)
そういえば、落語「茶の湯」も、このあたりが舞台。
(志の輔師のものは、おかしい、です。お勧め。)
そうである、忘れてはいけない。
根岸といえば、正岡子規先生、で、ある。
先の羽二重団子からの細い通りを、JRの線路の方に入った、
今は、建て込んだ住宅地の路地に子規庵はある。
この通り沿いに貼られていた、地図、ちょっとわかりずらい。
同じく、前田邸
根岸でも尾久橋通りの南側、は古くは
上根岸と呼ばれ、子規庵の他に、明治に入り、
旧加賀藩前田家の別邸があったようで、柳通りのあたりよりも
より、ハイソな区域であったようである。
そして、子規庵の先には、今、ご存知、根岸の師匠、
林家三平師、根岸三平堂が、ある。(むろん、三平師は故人)
その路地を抜け、JR線路際に出、言問い通り、
寛永寺陸橋をくぐると、鶯谷のラブホテル街。
ついでだが、これも、根岸花街の流れ、で、あろうかと思われる。
しかし、それにしては、先の柳通りのあたりからは離れているし、
前述のように、上根岸は、よりハイソな区域であったはずである。
なぜであろうか?
時代が違うのであろうか。
正岡子規先生が亡くなったのが明治35年。
鶯谷駅の開業が明治45年。
少なくとも、それらの後ではなかろうか。
「鶯谷の現在の坂下には、何軒も料理屋があったんですよ。
踏み切りになってましてね。(中略)
で、その両側に料亭があったんですよ。」
「芸者が始終人力に乗って通ってね。」
(前出:「古老がつづる台東区の明治・大正・昭和」)
というような情報もある。
坂下とは、南口から言問い通りへ降りる坂
(橋、跨線橋、名前は凌雲橋)のことであろう。
当時は、橋ではなく、踏み切りで、
このあたりに、料亭が軒を連ねていた、という。
想像であるが、置屋が、柳通りのあたりで、
こちらが料亭であったのか?
そして、柳通りあたりから、ここの料亭まで人力で通(かよ)った。
そういうことではなかろうか。
(置屋と料亭、待合が離れていることは少なからず、ある。
新橋なども、そうだったようである。
今の銀座6〜7丁目のクラブ街に芸者屋があって、芸者さんは
東銀座の料亭までやはり、人力で行った、という。)
そして、それら駅付近の料亭が
戦後、今の業態に変わっていった?
わからないが、、、。
(この件、また、調べてみたい。)
鶯谷駅北口。
脇を抜けるとまた、ラブホテル街。
しかし、よくまあこれだけまとまってあるものである。
都内でも渋谷円山町か、このへんか、、。
(さらについでだが、円山町も、旧花街である。)
先の、凌雲橋の下を抜けると、料理の専門学校などある。
線路際をいくと、通りにでる。
ここまでで、根岸は、おしまい。
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根岸が二回に渡ってしまったが、
今日はひとまず、ここで終わりにしよう。
明日に続くのかどうか、、、?
※引き続き、募集!!
「○○○○○
根岸の里の侘び住まい」
の上(かみ)五文字、を募集いたします。
賞品はないかもしれませんが、傑作は、ここで発表いたします。
ふるってご応募、お待ちしております。
断腸亭
ysaka01@attglobal.net まで