浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



浅草寿町・とんかつ・すぎ田、、元浅草界隈のこと。その1

dancyotei2007-02-04

2月3日(土)夜


午前中、マンションの臨時総会。


その後、第一食は、煮込み
何回も書いているが


作り置きしてあるものに、少なくなると、白モツを足して
作っている。


数日前にモツを足してあった。
ここに、にんじん、大根、豆腐を足す。


第一食から、これでは、、、と、いうよりも、
呑みたいから、こんなことになっている、のでもある。


まあ、よかろう。


さらに、冷蔵庫に残っていたキャベツ、豚バラで、
ホイコーローを、酔っ払い調理、、、。


ホイコーローの作り方はあえて細かく書くまでもなかろう。


豚バラスライスは、あらかじめレンジで加熱。
中華鍋に豆板醤、にんにく、しょうがみじん切りを炒める。
ここに肉から炒め、キャベツを入れ、、最後に豆板醤と同量の甜麺醤
しょうゆ。
豆板醤と甜麺醤が同量というのは、若干辛め、で、ある。


そのまま昼寝。
絵に描いたような、自堕落な生活、で、ある。


さて、内儀(かみ)さんが、夜、帰宅。


どうしても、すぎ田、に、いきたい、と、いう。
ポークソテー、だ、そうである。


すぎ田とは、浅草寿町のとんかつや、で、ある。
東京のとんかつや、としては、有名な方であろう。


同じく近所だが、上野にも何軒か、著名なとんかつや、が、ある。
(蓬莱屋、双葉)
上野はとんかつの発祥の地でもある。
池波先生がいった店もある。
筆者、知ってはいるのだが、なんとなく、そちらへはいかない。


友人に理由(わけ)を聞かれたりもするのだが、
特に、強固なる決心があるわけではない。


すぎ田は、拙亭のある元浅草とは隣町。
むろん歩いても、すぐ。ごく近所であり、近いとはいっても、
上野までいく理由がない。まあ、そんなところなのである。


19時前、一応、内儀さんに電話をさせてみる。
今日はなにやら混んでいるらしいが、まあ、座れるようだ。


ぶらぶら、歩いていく。


拙亭近所は、今まで、詳しく書いていなかった。
せっかくである。今日は、試みに、書いてみたい。


江戸の頃の地図


元浅草一丁目、拙亭のある、七軒町から、左衛門橋通りを渡り、
真っ直ぐに東に向かう。


左衛門橋通りは文字通り、今、浅草橋と秋葉原の中間、
神田川にかかる、左衛門橋から真っ直ぐに、北上している。


江戸の頃のこの通りは、元浅草から南は、小島町で屈曲し、
三味線掘に出て、南下はしていない。


左衛門橋は、今の橋の北、袂(たもと)付近に酒井左衛門尉(さえもんのじょう
出羽、鶴岡藩十四万石の譜代大名。)の下屋敷があったことに由来する。
橋ができたのは、明治以降、である。


ちなみに徳川譜代の酒井家は二系統に別れ、この左衛門尉家と
下馬将軍で有名な大老酒井忠清の雅樂頭家
(うたのかみ、播磨、姫路藩十五万石)である。


さらに脱線するが、酒井雅樂頭、といえば、落語、三味線栗毛、
なんというのを思い出す。、、三遊亭小圓朝師のテープを持っている。
噺の中では、雅樂頭のことを、うたさま、といっていた。
舞台は、同じく下屋敷だが、雅樂頭家のものは大塚(白山)。
圓朝師は、語り口も地味だが、なかなかしみじみとした噺で、ある。
誰も知らないだろうなぁ、、。



閑話休題


左衛門橋通りの東側は、町名は元浅草三丁目。


北西側が永住町、北東側が、阿部川町。南側が、三筋北。
これは旧町でもあるが、現町会名でもある。
(このあたりを含め、台東区のほとんどが、旧町と、現町会は
イコールである。このあたりが、下町の誇り、というところであろう。
鳥越祭りのお神輿もこの単位で担ぐのである。)


永住町は、池波先生の育たれた町であり、
永六輔さんの生家、があるのでも、有名かも知れぬ。
(今もある、お寺さんである。)
江戸の頃は、ほとんどが寺。
町としては、明治になり、できたところ。
左衛門橋通り沿い、東側にある誓教寺。
ここに、かの、江戸の大絵師、葛飾北斎の墓がある。


そして、小林清親という画家をご存知であろうか。
永住町の南端に、龍福院という寺に墓がある。
江戸末期の生まれで、明治の画家、版画家として著名である。


『上野、浅草を中心に新しい東京の風俗・建物が光と影によって描きだされ、』
台東区HP)と評され、なかなか、江戸期とはまた違った味のある
最後の浮世絵、といえるのかもしれない。
複製でもよい、一枚欲しいものである。


そして、阿部川町は、江戸からある町名。


落語、富久の主人公、幇間(たいこもち)の久蔵の長屋
のあったところ。彼はここから、芝まで火事見舞いに走る。


阿部川の名の由来は、やはり、駿河(静岡)の
安(阿)倍川からきているようである。
駿河安倍川の稲荷をここに移した、という。
このお稲荷さんは今も阿部川町の路地裏にある、孫三稲荷、という
小さなお稲荷さんだという。)


また、江戸中期、川柳の祖、ともいうべき、
柄井川柳(からいせんりゅう)は阿部川町の名主であったという。
今、鳥越祭りで阿部川町会の神酒所のできる、菊屋橋公園に
川柳の碑がある。


池波作品にもこのあたりは、よく登場する。
阿部川町という町が、江戸からあったことにもよろう。
鬼平であれば、「雨乞い庄右衛門」「泥鰌の和助始末」などなど。
(架空だが、同心小柳の菩提寺が、阿部川町の竜源寺、、)
「幕末新撰組」では永倉新八が裏長屋に住んでいたり、、。
(他にもいくつもあるような気がするが、今、思い出せない、、。)



阿部川町の路地を東に抜けると、
合羽橋道具街からきている、新堀(川)通りに出る。


関東大震災まで、新堀という名の堀川が流れていた。
合羽橋も、浅草通りの交差点の名前に残っているが菊屋橋も、
この川にかかる橋の名前であった。



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長くなったので、今日はここまで。
明日は、すぎ田、にたどり着くか、、?





※今夜、0:40、ウイークエンドジャパノロジー
オンエア、の、はず、です。