浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



加藤政洋著『花街・異空間の都市史』から「花街」のこと

dancyotei2006-09-05


さて、今日は、食い物の話ではなく、
先日の「先斗町」「五反田・かれーの店うどん(五反田概観)」で、
少し触れた、本の話。


題名が『花街』。サブタイトルが、「異空間の都市史」。
著者は加藤政洋氏。


花街 異空間の都市史 (朝日選書785)


いわゆる、「花街」(カガイ、あるいは、ハナマチ)、
というものについての研究書である。


まず、筆者がなぜ、この研究書に目が止まったのか、
と、いうことを書かねばならない。


筆者は、この日記で自作の料理やら、外で食べたものやらを
毎日書いてているわけである。


自作の料理は別として、外で食べる場合のこと。


基本的には、筆者、東京浅草に住んで、東京市谷牛込で仕事をしているため、
外食は、その周辺、であることが多い。
そして、それぞれのお店の説明だけでなく、意識的に、
その町や、界隈の歴史、できれば、江戸時代からのもの、を、
江戸の地図やらを交えて、書いている。


それは、自分の今、歩いているところが、昔なんであったのか、
そのくらいのことは知っておいてよいのではないだろうか、という
ことからである。


そのために、毎回、調べ、書いている。


筆者は東京という街に生まれ育った。
それでも、むろん、よく知らない街の方が多い。
調べながら、読者の皆様にも東京のこと、江戸のことを
知ってほしい。そして、東京という街の歴史や文化を大事にしていきたい。
(破壊され尽されてしまってもいるが、、、、。)


そんな、思い、なのである。


ともあれ、東京の街の歴史、ことに盛り場を調べてみると、
その成り立ちの中で、つっと、壁にあたることが、あるのである。


江戸時代が終わり、明治元年が1868年で、今年で138年。
そんなに古いことではない。筆者でも曾爺さんあたりになれば
江戸時代生まれかもしれない。


五反田のような郊外はともかく、いわゆる江戸、東京の市中では
江戸の地図と、現代の地図を重ねてみると、だいたい、重なる。
町屋でも、武家地でも、街路の区割りは、変っていないところが多い。
まあ、これは、明治以降、東京の街はほとんど、区画整理
し直されていない、ということでは、ある。


そして、その土地利用も実のところ、法則がある。
商業地は商業地、町屋は町屋、だいたいが、そのまま。
日本橋日本橋だし、上野広小路は、今も繁華な上野広小路である。
武家地でも、大きな武家屋敷は、明治以降、官庁になったり、
大学になったり、これもその区割り自体は、思いがけず変わっていない
ところが多いのに驚かされる。


さて、そこで、壁の話。
それは、「花街」である。
これがなんだかわからない。


例えば、拙亭の近所では、湯島天神界隈。
天神下、などと呼ばれている、千代田線湯島駅周辺、
大江戸線上野御徒町の西側あたりまで。
春日通りをはさんで南北に、今は、クラブやら鮨屋焼肉屋
居酒屋、種々雑多な風俗店。
その中に、池之端藪やら、古い和菓子店などがある。


ここが昔「花街」である、と、いうことは、街の感じを見ると、
いわれてみれば、なんとなく、わかる、ような気もする。
(むろん、建物などに誰でもがわかる痕跡があるわけではない。
しかし、よーく、捜すとそれでも、ちらほらと、例えば、昔、置屋であった
建物をそのまま使っている、ラーメン屋など、あったりする。)


しかし、これを説明してくれる人は、今はもういない。
(まあ、興味を持つ人も筆者ぐらいなものであろうが。)


有名な「婦系図(おんなけいず)」(泉鏡花)など、
当時の小説や、芝居などには、湯島はよく登場していたが、
筆者は、ほとんど知識としては、ない。
いま、簡単に、「当時」と、書いてしまったが、当時とはいつ頃なのか、
それすらよくわからない。
(ちなみに先の「婦系図」は明治40年新聞小説らしい。)


江戸の頃は、この界隈、広小路の東側に、同朋町やら、北大門町やら、
黒門町やらがあり、また、今の、池之端藪のある通りが
江戸の頃から池之端仲町と呼ばれた商店が軒を連ねる街であった。
そして、その東側、天神下は、板倉摂津守屋敷やら、武家地。


これらが、いったいいつ頃、花街になったのか、
そして、いつ頃、なくなって、今のようなことになったのか。
まとめて、歴史として、あるいは、記録として書いたものは
今はほとんどない、のではなかろうか。


そして、もう一ヶ所。
浅草、観音裏。
観音様の北。今は、言問い通りの北側。


ここは、幸い、と、いうべきか、今でも、見番があり、料亭がある。
「花街」として、商いをしているので、見た目にはわかりやすい、
か、に、見える。


東京浅草組合のページ


ここに、わずかながら、歴史が記述されている。
元々は、観音裏ではなく、公園(六区のあたり)芸者と
よばれていたらしい。


江戸の頃を、考えてみると、観音裏は、田んぼであった。
いわゆる、浅草田んぼから、吉原田んぼ。


これが江戸末なのか、明治になってからなのか、いわゆる
「花街」になっていったようなのだが、いつ頃、どんな風にできて、
いつ、三業地として許可(許可されるものであった)されたのか。
それを今、きちんと説明している書物はほとんどないだろう。


(これも、先の湯島天神下のように、明治から、大正にかけての、
この界隈を舞台にした小説やら、随筆やらをあたれば、
おぼろげながら、わかるかもしれない。
が、やはり、きちんとした事実、あるいは、記録のようなものは
当時としても、なかなか、ないのではなかろうか。)


そして、筆者の時代考証、らしきもののよすがの一つは、江戸落語である。
食い物のことは、その食い物が落語に登場するかどうかで、
江戸の頃からあったのかどうか、そんな判断基準にも
なると思っている。


そんな江戸落語であるが、いわゆる「花街」、芸者や待合、が登場する噺は
数少ない。ご存知の通り、吉原やら、品川やらの、遊郭は頻繁に登場し、
それに付随して、芸者がてくることもある。
しかし、今、いっている、遊郭とは独立した、芸者置屋、待合、料亭などが
テーマ、あるいは芸者が、主人公として登場する落語は、
ないことはないが、遊郭の噺に比べると、格段に少ない。
(「立ち切り」、「つるつる」、いわゆる落語ではないが「小猿七之助
などが、今思い出される、、か。)


これはなぜであろうか?


加藤氏の『花街』によれば、芸娼分離、芸者と娼妓(いわゆる遊郭の遊女)を
明確に分けるようになったのは明治以降。そして、
制度として三業地というものを作ったのも、明治以降。


落語は、三遊亭圓朝の作品をはじめ、明治になってできた噺も
少なくはない。
それであれば、「花街」を舞台にした噺がもっとあってもよさそうである。
(となると、意識的に、落語は、「花街」を取り上げなかったのではないか、
という推論が出てくるのであるが、この考察は、
長くなるので置いておく。)


加藤政洋氏の『花街』。
前にも書いたが、実にこの方、綿密に調べている。
筆者が先に書いたような、当時の小説、東京であれば、
断腸亭、永井荷風先生の随筆やらから始まって、当時の、
いわば風俗案内のようなものやら、新聞記事、
「花街」の組合の年史のようなものやら、様々な断片を
つなぎ合わせ、明治から大正、昭和初期の、「花街」の姿を
浮き彫りにしていった。


まさに、目から鱗。実にその成り立ちを明瞭に解きほぐしている。
筆者にとっては、まったくありがたかった。


では、なぜ、そうしたきちんとした記録や、考察が
今までなかったのだろうか。これが大いなる疑問なのである。
あれだけ、繁栄をした「花街」で、ある。


いわゆる遊郭について、ことに吉原は、書かれているものは多い。
研究、文学、芸能(歌舞伎、落語など)、そして映画などでも
枚挙に暇がない。それらで、その有様は、なんとなく知ることができるし、
現代でも、時々映画などで取り上げられる題材でもあり、
比較的誰でも知っているものだろう。


筆者が芸者さんで思い出すのはやはり、日本映画である。
「森繁」の社長シリーズ(1950年代〜60年代)で、三木のり平が、
「じゃあ、今日は、パッ、パッ〜〜っと」などといって、
新橋へ繰り出す、、。などというシーン。
あるいは、川島雄三監督「女は二度生まれる」(1961年)。
九段芸者を演じる、若尾文子は、なかなかよかった、、、。
などなど。はっきりした印象があるようで、やはり、
どうもわからない部分が多いような気がするのである。


ともあれ、「花街」が忘れ去られようとしているのは、
その積み重ねた歴史の薄さ、からであろうか。
明治以後、大正、昭和初期を頂点に、パッと花開いた。
その後、戦災で数を減らし、昭和30〜40年代以降、
大部分は、徐々に滅んでいった。
本当の、全盛だった頃は、大正から、戦争が激しくなる前の
20〜30年程度と、戦後復興後の10年ほど、と、
実はそれほど長い期間ではなかった、からであろうか。
(単に、隠蔽されるべきものであったから、という理屈は
あたっていなかろう。同じ隠蔽されるべき、吉原はかくも盛大に語られ、
書かれている。)


今日は結論は出ない。
もう少し、「花街」の実際を知る必要があろう。


(断腸亭、永井荷風先生の随筆でも少し丹念に読んでみようか。)