浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

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「蕎麦打ち男」のこと。趣味そば考察、その2


今日は、珍しく、考察のみ。



残間里江子著「それでいいのか 蕎麦打ち男」という本がある。
それでいいのか 蕎麦打ち男

この本の趣旨は、団塊の世代である残間氏が、彼女独特の論調で、
蕎麦打ち、に興じる、同世代の男性達に対して、そんなことしか
することがないのか!、それでいいのか?と、いう辛口のエール?
を送る、と、いうようなことになるのか、、。


このタイトル、を見て、まずは、笑ってしまった。


筆者は、そばは打たない。
(また、団塊でもない。今年、43歳である。)


実をいうと、打てるのだが、打たない、と、いうのが本当である。
打てる、というのは、学生時代、手打ちそば屋で、
バイトをしていたから、である。
(ついでだが、うどん、ラーメン、も打てる。)
うまいかどうかは知らぬ。打ち方を知っている、というだけである。
また、とりあえず、打ちたい、と、思ったこともない。


ともあれ、今日は蕎麦打ち男、とその周辺について、考えてみたい。
(断っておくが、この本に関しての、反論や評論を書きたいわけではない。
「蕎麦打ち男」という言葉に、ちょっと反応してしまったのである。)


「蕎麦打ち男」という言葉から、
筆者は、「趣味そば」を思い浮かべたのである。


なにか、同じ様な匂いを感じたのである。


以前に、趣味そばについては、「趣味そばのこと」として、
書いたことがあった。


なんであろうか、この共通点は。


「蕎麦打ち男」の行き着くところが、
「趣味そば」、と、いうことではなかろうか。


では「趣味そば」の対極は、なんであろうか。
東京では、藪や更科などなど、「伝統のそば」ということになろう。


「趣味そば」は「伝統」に対するアンチテーゼ、と
いうことであろう。


それを支持する人もいるのであるから、
店、として成り立っている、と、いうことである。


しかし、筆者は、好き嫌いでいえば、嫌い、である。


食は文化である。
文化は伝統である、が、筆者の持論である。


しかし、伝統を進歩させるには、破壊することも必要である。
これも真実である。否定はしない。
だが、それは、伝統を知った上での、破壊でなくてはならない。


つまり、老舗のそば屋で、きちんとした修行をした上で、
それを打ち破った、新しいそば屋の形を造る、というのならば、
筆者は納得する。


しかし、今の「趣味そば」のご店主達すべてが
そうした修行を経て、開業したものではなかろうかと思う。
(そば以外のメニューの味が、納得いかぬところが多いのも
それを裏付けていよう。)
このあたりは、前回も書いたことではある。


一方、「蕎麦打ち男」のことで、ある。


彼ら、団塊世代は、ある種、自分達は日本の社会や文化を
変革した、と、思っている方も多いのではなかろうか。
(そうでない、謙虚な方も、もちろん沢山いる。)
しかし、まあ、一歩譲って、そう思うのは勝手である。


また「蕎麦打ち」も他人の趣味である。
筆者などが、とやかくいうことではない。
また、人によって取り組む姿勢も様々であろう。
十把一絡げに、「イカン」と、いうのは言い過ぎである。


しかし、やめてほしいのは、
日本の食文化の歴史や伝統とは対極にある、
底の浅い「スローライフ」などとつなげて、はやしたてる、
ちょっと気取ったグルメマスコミである。
そして、「蕎麦打ち男」のある種の理想形が「趣味そば」である、
というのを作っているのも、彼らであろう。


そして「趣味そば」のこと。
腰が低いのであれば、まだいい。実際は、正反対。
一様に、態度がでかい。
(そば以外のつまみや料理は、
満足なものが作れないにもかかわらず、で、ある。
毎度言うが、路麺を見るがいい。
ことに、田端のかしやま、である。
あれだけていねいな仕事をして、
腰の低いこと、低いこと。そして、うまいこと。)


もっと、食い物に対して、歴史や伝統に対して、
謙虚になるべきではなかろうか、と、思うのである。
筆者自身は、そうありたい、と思っている。


先人達が、作ってきたものである。
それが人間の文化、と、いうものであろう。



『後記』
なにか、語りつくしていないような気がする。
しかし、改めて思うが、それだけ、みな、そば、が好きなのである。
なぜであろうか。「そば」の魅力、「そば屋」の魅力とはなんであろうか。
そば、の本質を解明できれば、「蕎麦打ち」「趣味そば」の筆者にとっての
胡散臭さ、をもう少し明らかにできるかもしれない。