浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



その27 粗忽者 「堀之内」「粗忽長屋」


粗忽。そこつ、と読む。


辞書を引くと、『軽はずみなこと。そそっかしいこと。
また、そのさま。軽率。「―な男」「―な振る舞い」大辞泉
と、いうことらしい。


粗忽者を扱った噺も、多い。
粗忽の釘」、「堀之内」、「粗忽の使者」、「松引き」、
粗忽長屋」あたりであろうか。


これだけあると、一つのジャンル、ともいえようか。


基本的には、そそっかしい男の話である。
しかし、ただ普通に、そそっかしいだけでは、たいして面白くもない。
極端に、誇張した、あわて者、である。
落語に限らず、喜劇、コメディー、コントなどの常套手段でもある。
バナナの皮に滑って転ぶ、と、いう、あれ。
ナンセンス。ドタバタ。


粗忽の釘」では、男が、釘を打とうとすると、
自分の指を打ってしまう。「痛ぇっ。」と、指を舐めるが、
「あ、違った、こっちの指だ」、、。
と、まあ、こんな調子である。


しかし、笑い、と、いうものは、陳腐化するものである。
バナナの皮で滑るだけでは、観客は笑わなくなる。
すると、演者は、この誇張をどんどん進めていく。
すると意味を超越し、虚構の世界に入っていく。
これはもはやファンタジー、である。
とめどもなく、可笑しい。
笑いのスパイラル、と、いうのであろうか、そんな世界に
突入する。


立川談志家元は、これを、イリュージョン、と、呼んでいる。
(談志家元は、粗忽以外でも、「洒落小町」というような、
言葉遊びの噺から、イリュージョンの世界へ入る。
もともと落語が持っている、ナンセンス、言葉遊びの側面を
深化させる、という試み。)

「堀之内」


前座噺、というほどではないが、若手が演るし、また、
真打、大御所まで演る噺である。
先年なくなった、桂文治師なども、よく演っていた。


ストーリー

粗忽の噺は、基本的には、たいしたドラマはない。
全編のドタバタ、それだけである。


とある粗忽な男が、自分の粗忽を治すために、
願掛けをすることにした。
宗旨が、法華(日蓮宗)であるため、
堀之内のお祖師様(おそしさま。杉並区、堀之内の妙法寺)にお参りにいく。
行く道々、ドタバタ。行って、お参りして、ドタバタ。
帰ってきて、子供を湯屋(ゆうや。銭湯)へ連れて行くが、
ここでもドタバタ。


行きがけ、南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)、
南無妙法蓮華経と、唱えながら、歩いて行く。
「はて。俺は、どこへ行くんだったっけ。」
自分の行く場所を、忘れてしまう。
歩いている人に、
「もしもし。私は、これから、どこへいくんでしょうか」
すごい、キャラクターである。
わかるわけがない。
「知りませんよ。そんなこと。」
「そんなこといわないで、教えてくださいよ。」
「わかりませんけど、、、。ひょっとすると、あなた、
 お題目(南無妙法蓮華経)を唱えていたから、堀の内の
 お祖師様へでも、ご参詣に行くんじゃないですか?。」
「ほうれみろ、知ってるんじゃないか。知ってるんなら、
 早くいえ。」
「察してあげたんじゃないか。」


本堂に着いて、お賽銭をあげようとするが、
紙入れ(財布)ごと投げてしまう。
弁当を食べようと、首に結わえた、風呂敷包みを開くと、
出てくるのは、枕。


帰ってきて、子供を銭湯に連れて行くが、
せっかく着せたばかりの、人の子供の着物を脱がせたり、
子供の背中と、壁を間違えて、ゴシゴシこすったり、、、。



筆者の素人落語の師匠である、立川志らく師の真骨頂、といえる
噺でもある。
とにかく、まあ、可笑しい。笑いのスパイラルである。
ひょっとすると、受け付けない人もいるかもしれない。
意味を超越してしまうことは、人間を不安にさせる。


これ以外に、「釘」「使者」も志らく師で、
是非、聞いてみていただきたい。


志らくのピン(2)

粗忽長屋


これは、噺自体が、もともと、イリュージョンかも知れない。
小さん師匠、小三治師。
柳派(やなぎは)のお家芸といってもいいかも知れない。
もちろん、談志家元も演る。
家元は、「これは粗忽ではない。主観が強過ぎる奴の噺だ」
と、いうので、『主観長屋』と、いっている。


ストーリー


浅草・雷門の前に、人だかりができている。
八五郎が、首を突っ込んでみると、行き倒れ、である。


誰かこの人を知っている人はいないかと、捜している。
八五郎は前に出て行き、顔を見ると、この男を「知っている」という。
同じ長屋の、友達、の熊五郎、であるという。
「本当ですか?」
「ほんともなにも、今朝、会ったんだから」
「じゃあ、違うよ。これは昨日からだよ」
「いや、あの野郎、そそっかしいから、自分が死んだのにも
 気が付いていない。
 じゃあさあ、当人連れてくるから」
「当人?」
「そう。当人。当人を連れてくれば、文句はないだろ。」
「あのね、あんた、落ち着いとくれよ。ここにいんのは誰なんだい?」
「だから、熊五郎だよ。」
「じゃあ、その連れてくるってのは、誰?」
熊五郎だよ。」
熊五郎って、人は、二人いるの?」
「いや、一人だよ。」
「じゃあ、どっちかが、違う人なんだよ、ね。」
「だからさ、それを当人に確かめさせよう、っていうんだよ」
「わかんない人だな」、、。


「いいじゃないか、当人連れてくるっていうんだから。見てみましょうよ」
「あんたね、面白がっちゃいけないよ、、、。」


長屋へ戻って、熊五郎に、
「お前、昨夜(ゆんべ)、死んでるよ」
「え?」
「昨夜、どこへ行ったんだい」
「昨夜は、吉原(なか)冷やかして、、、馬道(うまみち)んとこに
 屋台が出てたから、そこで、5〜6杯も呑んだかな、、、
 烏賊食ったんだよな、、、あんまりよくなかったのか、
 途中で気持ち悪くなってな、、、あとぉ、どうやって帰ってきたか
 憶えてないんだよ、、。」
「それだよ。それ。ヘンな酒呑んで、烏賊に当たって、どうにもこうにも
 たまんなくなって、雷門のとこまできて、倒れて、冷たくなって、
 死んだのも気が付かずに帰ってきちゃったんだよ、お前は、、、。」
「そうかなぁ、、、。」
「まだ、そんなこと、いってやがら。
 自分が死んだのも気が付かねえ間抜けなんだから。
 なんか、気分が悪いって、いってたじゃねえか。
 死んだんだから、気分が悪いんだよ」
「そうか、、、。死んだのか、、。」
「死んだんだよ、、、。行こう。」
「どこへ?」
「いや、死骸を引き取りに行かなきゃ。」
「誰の?」
「お前の。」


二人。雷門にやってくる。


「おい、こっちへ来い。あのぉ、、、こいつでござんす。
 ほら、この小父さんに世話になったんだから。」
「とうも、すいません。ちっとも知らなかったんです。兄貴にいわれて、
 わかったんです。昨夜、ここで死んだそうで、、。」
「やだなぁ、、。また、おんなじような人がもう一人増えちゃった。、、」
 

そして、下げ。
熊五郎は、死骸を抱き上げる。
「、、、、これは、自分のもん、なんだから自分で抱いて、、、
 うーん、、、。抱かれているのは、俺なんだけど、抱いてる俺は、
 いったい誰だろう。」


まさに、傑作である。
下げも、傑作。


たまらなく、可笑しい、フレーズの目白押しである。
下げもそうだが、


「死んだのも気が付かずに帰ってきちゃったんだよ、お前は、、、。」


「いいじゃないか、当人連れてくるっていうんだから。見てみましょうよ。」


「また、おんなじような人がもう一人増えちゃった。」