浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



その17 廓の噺、の、こと 1.プロローグ


さて、禁断の噺(?)、で、あろうか。


「子別れ」「明烏」「盃の殿様」「付き馬」「紺屋高尾」「文七元結」。
今まで、解説をしてきた廓(くるわ)が舞台の噺を挙げてみると、
こんな感じである。


これはすべて、吉原が舞台である。
この文章、断腸亭落語案内は、落語案内と同時に、江戸案内という趣旨も
標榜している。まず、吉原、および、同様の機能を持っていた、
四宿について、書いてみる。


そもそも吉原とは、、、。


これは、ズバリ、落語の中に、吉原の由来をいい立てる噺がある。


「五人廻し」、という噺である。


昔、廓には、廻し、という商売方法、と、いうのであろうか、
やり方があった。
いわゆる、大店(おおみせ)と呼ばれた高級店では、
そんなことはなかろうが、一晩に何人も客を取り、
遊女はその客の座敷を廻る、というのである。

この噺は、「江戸っ子」、「田舎者(軍人)」、
「田舎者(竹の塚の在(ざい))」
「半可通(はんかつう。キザな通ぶった奴、のこと。
酢豆腐」の若旦那である。)」
「田舎の大尽(だいじん・金持ちのこと)」。
五人のバラエティーに富む客、が、廻されたが、ふられ
花魁はちっとも姿を現さない、そして、、、という噺、である。


そこで、最初の「江戸っ子」が吉原の由来をいい立てるのである。


「そもそも、権現様(ごんげんさま)ご入国の時分(じぶん)にゃぁ、
 江戸に遊女てぇのが、あるにゃあ、あったんだ。
 京の六条河原からから来たのが麹町の八丁目に十四、五軒と
 駿府(すんぷ)の弥勒(みろく)町から来たのが鎌倉河岸に十五、六軒。
 江戸、土着のものが、土橋、つったって、手前(てめえ)にゃぁわかるめぇ、
 今の常盤橋のこった。
 (と、書いても、今、わかる人も少なかろう。常盤橋は、日本橋本石町
  今は日本銀行本館前の外濠に架かる橋である。<筆者注>)
 あの辺に二十軒ばかりあったんだが、
 江戸市中にそういうものを置いといたんじゃ風紀上よろしくねぇ、てんで、
 慶長十七年に、相州(そうしゅう)小田原の住人で、庄司甚左衛門、
 通称、庄司甚内てぇ人が願(ねが)い人総代となって、
 公儀(こうぎ)に申し出て、初めて廓が許されたんだ。
 元和三年の春に葦屋町(ふきやちょう。今の日本橋人形町あたり。)に、
 二町四面(にちょうしめん)の土地をもらって始めたんだがあの辺は、
 一面に葦(よし)の生えた原だ。
 葦の上にできた原だから、よし原と名が付いたのを、
 縁起商売(えんぎしょうべぇ)だから、字を吉原(キツゲン)
 と改めて、吉原だ。
 それから三十五年たった明暦の二年に
 浅草田圃に引き移りを命じられたんた。
 

 葦屋町からあんな辺鄙(へんぴ)な土地に行くんだから、
 土地を五割方(がた)増してもらって、
 翌、明暦の三年に八月の十四日に始まって
 今日に至るのが、新吉原ってんだ。覚えとけ。
 
 吉原中には、大店が何軒、中店(ちゅうみせ)が何軒、
 小店(こみせ)が何軒、合わせるってぇと何百何十軒あって、
 女郎の数が何千何百何十人いて、年がいくつで、国はどこそこで、
 兄弟が何人いて、間夫(まぶ)が誰で、いつ病気ぃもらって、
 いつ病院から出てきた、てぇところから、客あしらいがいいとか、悪いとか、
 泣きがいいとか、悪いとか、てぇことまで知ってんだ。
 ・・・・・・・。」

いい立ては、まだまだ続くが、この辺でやめておく。


詳細まで調べているわけではないので、この、いい立て、すべてが
正しいかどうかはわからないが、いわゆる振袖(ふりそで)火事と呼ばれる、
1657年、明暦の大火以降に人形町あたりにあったのが、
今の台東区浅草の北部へ移転したのが、新吉原、で、ある。
(葦屋町にあったころを元吉原、と、いう。)


1657年というと、権現様(ごんげんさま)ご入府が1603年であるから、
江戸時代もまだ初期の頃にはもう、新吉原はできていた。
それから今年で、348年。たいした歴史である。


いわゆる公許。
幕府から、許されていた、遊郭である。
明治以降もこの官許は基本的には継続され、
さらに戦後も昭和32年まで、この状態は続いた。
しかし、むろんのこと、落語に出てくる、江戸時代の遊郭の形態は
大正時代を最後に終わっている。
(最後の花魁道中が、大正時代である。)


さて、江戸時代には、吉原のような、いわゆる遊郭以外にも、
同様の業態はいたるところに存在し、
その主要なものが街道の宿場町であった。
東海道では、岡崎、三島、などが有名であったという。
江戸府内では無許可のところを、岡場所(おかばしょ)と、いった。
岡場所は、落語にはほとんど登場しない。)


こうした、宿場では、もちろん、普通に旅人を泊める
旅籠(はたご)としての機能もあったが、
飯盛り女郎(めしもりじょろう)、といって、給仕をする女性が、
遊女としての役割もする、という、そんな仕組みがあったのである。
(岡場所は、非公許であるのに対して、宿場は、幕府の黙認を得ており
いわば、準公許、といえよう。)


そして、江戸からの大きな街道の一つ目の宿場が、
旅籠としての機能ではなく、吉原とほぼ、
同様の機能を持っていたのである。
これが、四宿(ししゅく)、というものである。
すなわち、東海道が品川(品川区北品川あたり)、
甲州街道内藤新宿(今の新宿区新宿二丁目あたりから、三丁目あたり)、
中仙道が板橋(板橋区板橋本町)、
日光街道が千住(千住大橋をはさんで、
荒川区南千住五丁目と足立区千住河原町千住仲町)、である。


落語では、これら四宿も舞台になっている。
有名な「品川心中」「居残り佐平次」(品川)
「文違い」(内藤新宿)、「藁人形」「もう半分」(千住)
あたり、であろうか。


さて、吉原、である。


21世紀になって、既に、数年が過ぎている。
この現代に、吉原の噺を語る意味がどれほどあろうか、わからない。
まさに、時代錯誤かも知れない、と、しみじみ、思う。


前に挙げた、なん席か以外にも、もう、数え切れない噺がある。


特殊な場所である。
今、それを経験しようと思っても、落語に登場する、
情緒、文化、という意味では、あり得ないし、そこに、
現代性、が、あるかどうか、、。


そして、もっと、大事なこと。今日は、冒頭に述べた趣旨もあり、
ちょっと、真面目に書いておかなければ、ならない。


落語に描かれている、吉原などの姿は、
必ずしも、すべてではない。


この場所は、ご存知のように、基本的には、身売り、人身売買、という
形で、縛られ、身体を売る、ことを余儀なくされた女性達が
ほとんどであった。「苦界」、である。
病気を引き受け、動けなくなっても、ろくに薬も与えられず、
死んでいった。
死んでしまえば、投げ込み寺と呼ばれた、三ノ輪の浄閑寺に葬られた。
今、浄閑寺には葬られた彼女達の「新吉原総霊塔」と、いうものがあり
「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と、刻まれている。



(中央にある、ピンク色の部分が、浄閑寺。左上が吉原である。)


筆者のペンネーム、である、断腸亭。
その元祖は、作家、永井荷風先生である。
断腸亭日乗という日記を書かれていたことに由来する。
そして、元祖断腸亭先生は、吉原、と、いうところにも並々ならぬ縁がある。
浄閑寺では、四月三十日には毎年、荷風忌が催されている。
また、境内には先生縁(ゆかり)の碑もいくつある。
こうした背景があり、落語とは、少しずれるが、
筆者には吉原について、
あだや、おろそかに語ることは、できない。


落語が好きである、とすると、吉原は、情緒、として、文化として、
よかったところ、という文脈で語るのが常道であろうかとも思う。
しかし、吉原の落語を語るのであれば、吉原とは、
それだけではない、と、いうことも、触れておきたかったのである。


そして、そうしたことも踏まえ、さらに、吉原の情緒、文化以外のものも、
廓の噺にはある。


それは、男と女、の姿、である。


色と欲(金)、嘘、真、見栄、、、、、。
人、というものの、本当の姿を、時には可笑しく、時には悲しく、
時には醜く、描いている、ということ、である。
これが、ひょっとすると、現代性になるものかも知れない。


ちょっと、長くなった。明日に続く。