浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



その5イデタチ、高座に上がる、枕、噺、下げ


先週まで、都合四回、落語を、まったく知らない方へ、
と、思い、基礎知識、東京で落語を生で聞くには、
寄席のこと、独演会、町の落語会、のこと。
また、テープで聞く。志ん生文楽、円生、昭和の三名人の
おすすめの、三席を書いてきた。


今日は、少し噺(はなし)の成り立ち、仕組み、のようなものの
基礎知識、落語独特の言葉の解説などなど、を書いてみたい。

イデタチ


まず、落語家のイデタチ、から。


基本的には、着物、である。
洋服で落語をする、ということは、現代でも、基本的には、ない、
と、いってよかろう。


落語家の着物も、いろいろある。
一番多いのは、いわゆる、袴(はかま)をはかない「着流し」。


古今亭志ん朝1「お見立て」「火焔太鼓」 : 「朝日名人会」ライヴシリーズ 1
(これは、古今亭志ん朝師の羽織を脱いだ、着流し姿。イメージです。)


そして、前座(ぜんざとは、落語家見習、といえばわかりやすいであろう。)
以外は、羽織(はおり)を着る。


キング落語名人寄席 すみれ荘201号室/夜の慣用句
(これは、柳家喬太郎師の羽織姿。イメージです。)


羽織は、洋服でいえば、上着である。
昔、日本人が着物を着ていた時代、男性が外出時など、
ある程度、かしこまった格好として、羽織を着た。


先に、前座は着ない、と書いたが、羽織を着る、と、
いうことは、成人として、一人前である、という姿でもある。
商家でも、小僧や手代(てだい)は普通は、外出時も、着ない。
そこで、落語界では前座は羽織は着てはいけない、ことになっている。


また、職人も一般的には、着ない。職人の正装は、半纏(はんてん)である。
(職人のことは、ちょっと、おとしめた言い方として、
半纏着(はんてんぎ)、などというのがあった。
半纏着は、吉原で格式の高い大店(おおみせ)では客にしない、
などということも、あったらしい。)


羽織を着ている、ということは、一般に
社会的なポジションを表すもの、でもあったのである。
(現代では女性も着るが、上記のような意味があって、
本来は、女性も羽織は着ないものであった。)


袴、である。
袴も、落語家が、はく場合がある。
高座に上がる場合は、袴をはけば、羽織は着ない。


袴をはく場合が、特に決まっているわけではない。
その落語家の趣味であったり、また、武士の噺だから、
袴をはく、などということもある。


桂文治(2)「親子酒」「禁酒番屋」-「朝日名人会」ライヴシリーズ14
(これは、桂文治師の袴姿。イメージです。)


そして、持ち物は、扇子(せんす)と手ぬぐいである。
手ぬぐいは、懐(ふところ)に入れ、扇子は手に持つ。
扇子は、高座扇(こうざせん)といって、専用のものを使う。



また、手ぬぐいは基本的には、なんでもよいのであるが
折方は決まっている


高座に上がる


次に落語家が高座=舞台に上がる段取りである。


まず、前座が、座布団を引っくり返し、舞台袖(そで)にある、
噺家(はなしか)の名前の書かれた、
めくり、と呼ばれる、紙を文字通り、めくる。


すると、出囃子(でばやし)と呼ばれる、音楽が流れ、噺家が現れ、
舞台中央の座布団(ざぶとん)に座り、頭を下げ、扇子を置き、
話が始まるのである。


この出囃子は、三味線、笛、太鼓、鉦(かね)で、演奏される。
三味線以外は、すべて、前座の仕事である。
三味線は、専門の女性が弾く。
また、出囃子にはそれぞれ、名前が付いており、
基本的には、その噺家によって決まったものを演奏する。


また、基本的には、舞台袖(そで)で、生で演奏されるものであるが、
寄席以外では、今は、テープ(CD)で流されることが多い。
(また、出囃子のCDは、一般に、売られてもいる。)


座布団に座る、と、書いたが、上方(かみがた。京都大阪のこと)落語や、
講談とは違い江戸落語の場合、座布団のみである。


上方落語や講談の場合、釈台(しゃくだい)といわれる、台を前に置き、
いわゆる、張り扇(はりせん)といわるものペシペシ、と叩きながら
演ずることがある。


まったく落語をご存知ない方に、
「落語?ああ、ペシペシ叩くやつ?」と聞かれることがあるが、
江戸落語では、台も使わないし、ペシペシも叩かない。


落語家が、一つの噺を始める時に
語り出しとして、なんらか、喋る。
これを、枕(まくら)、と、いう。


もともと、寄席で落語家が噺をする場合、何の噺をするのか、と、
いうことは、決めていない場合もあった。


寄席では、何人もの噺家が次々と出てくる。
このため、当然であるが、同じ噺はしてはいけない。
(また、噺の成り立ちが、同系の噺、も
本来は、禁じ手、であったようである。)


そこで、寄席の楽屋には、朝から高座(こうざ)に上がった
噺家の演じた噺が書かれたネタ帳、というものがある。
(これは、前座が書く。)
これを見て、次に上がる噺家は、重ならないように考え、
演じる噺を決めるのである。


噺家は、高座に上がる時には既に決めている
場合が、ほとんど、であるが、昔は、高座に上がり、
枕を話している間に、客の反応を見て、決める、と、いうことも
あったと、いう。


枕は、通常、漫談と小噺(こばなし)、で成り立っている。
小噺も、いわゆる、古典の、ものがきちんと存在している。


そしてまた、この系統の噺であれば、この小噺、をする、
と、いうのが、本来は、決まっているのである。
子供の噺であれば、子供の小噺、動物の噺であれば、
動物の小噺、などである。


蛇足であるが、筆者など、素人でも、イッチョマエに
枕を振る(まくらをふる、という言い方をする。枕を話すこと。)
なんという、生意気なことをしたがる。
しかし、これは、筆者の師匠である、立川志らく師にこっぴどく
叱られた。ことに、漫談はやめろ、という。
するのであれば、前に述べたように、噺に合った、古典の小噺を一つ二つ、
それで充分である、というのである。
面白くもない、素人の漫談など、誰も聞きたくない、と、いうことである。


枕から、噺へは、いきなり、入る。


まったく聞いたことのない人が、落語を聞くと、
どこから、噺が始まったのか、わからない、と、いうことも
あるかも知れない。


枕は漫談と、小噺で成り立っており、地(じ)の語り、が中心である。
これに対して、本題の噺は、基本的には、会話で成り立っているため、
会話が続きはじめれば、本題の噺に入ったかどうかは、わかるかと思う。


噺は現在、江戸落語では、主に語られているもので
200〜300席ほど、ある。


成立は、江戸末期、文化文政期(1800年代前半)と、いわれている。
この時代からあるのものもあろうが、その後、明治になって、
作られたものも、古典のなかには多い。
(明治では、三遊亭圓朝作のものが、特に多い。)


プロの落語家、真打
(しんうち。落語家には、前座、二つ目、真打、という
序列がある。真打で、いわゆる、一人前で、寄席でトリを取れる。)

であれば、人によっても差があろうが、
50席程度は、持ちネタとして、すぐできる。

噺の分類


落語の、噺自体の説明をする、となると、なかなか一筋縄ではいかない。


実をいうと、落語には、
過去、落語評論、落語研究などが盛んであった頃、があったのである。
有名なところでは、安藤鶴夫、なんという人を挙げなければいけなかろう。
時代考証から、演者の評論、作品の評論、分析、などなど、
様々なことがなされていたのである。


しかし、結論からいうと、入門編として、ここでそれらを
述べることは不適切であろうし、また、現代的には、聞くという立場でも
演ずる、という立場でも、こうした過去の評論は、
筆者はたいした意味はない、と、考えている。

分類としては、人情噺、くらいを、憶えていればよい。

下げのこと


これも、噺の分類同様、過去の評論、分析は山ほどあるが、
同様の理由で、たいした意味はないが、ちょっとだけ、解説を
してみようかと思う。


一般に、落語、は、落し噺(おとしばなし)といわれており、
噺の、一番最後に、下げ(さげ)あるいは、落ち、というもので
締めくくられる。


「半鐘はいけないよ。オジャンになるから。」(火炎太鼓)
「あそこは、私の寝床でございます。」(寝床)
「帰れるものなら帰ってみなさい、大門で止められら。」(明烏
「穴が隠れて、へ(火)の用心になります。」(牛ほめ)
「角(歌道)が暗いから、提灯借りに来た。」(道灌)
「いけねえ、また、夢になるといけねえ。」(芝浜)
「皮が破れて、な(鳴)りませんでした。」(たいこ腹)
「十圓あげるからさぁ、、、お前さんも帰っとくれよ。」(五人廻し)
「町内の若い衆が、寄ってたかって、こしらえてくれたの。」(町内の若い衆)
「おっかあ。、、、俺ぁ、、、長生きだ。」(短命)


(順不同。そこそこ、下げになっているもので、頭に浮かんだものを挙げた。)


ここだけ、書き出しても、よくわからぬかも知れぬが、
こんなものである。


ある種、下げは、落語のきまり、として、下げを付ける
ことになっている、というだけである。下げ、がなければ、その噺が
成立しないのか、というと、そんなことはほとんどない。


よい(きれいな)下げ、もあるが、ほとんど、下げ、
になっていないものも、少なくない。


快楽亭ブラック師が、シャレとして、冗談落ち、
なんという言い方を作っていた。


落ちが付かない、もしくは、途中で切るために、
程のよいところで、「冗談いっちゃぁいけねえ」と、下げて、
舞台を降りる、やり方である。
(漫才でいう、ボケたセリフに対して、突っ込んで、終わる、
と、いうやり方。)


こんなものでも、充分に落語の下げになってしまうのである。
これによって、その噺の面白さが下がることはないし、
演じた落語家の技量が問われる、と、いうことも、ない。


結局のところ、落語は、面白ければ、それでよいではないか、
あるいは、感動をあたえられれば、それでよいではないか、
と、いうこと。いや、そこが主眼で、それ以外の、分析にしても
評論にしても、たいした意味はないのである。


ともあれ、落語の下げ、よいものもあるが、
落語の本質ではない、と、いうことである。