浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



浅草芸人・浅草松竹演芸場のこと

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1月11日(土)

さて、土曜日。

久しぶりの、町歩き、浅草。
詳細を書くのはひかえるが、お話をしたことのエッセンスを
ちょっとだけ書いてみる。

今回は、浅草でも六区のことに重点を置いてみた。

浅草六区というのは、皆さんある程度聞いたことぐらいは
あろう。

浅草の明治からのエンターテインメントの街。

映画館が軒を連ね、浅草オペラ、その後のエノケン、ロッパ、
シミキンなどの軽演劇、そしてもちろん活動写真から映画。

あるいは、北野武氏が今も語っている、浅草芸人。

キーワードを挙げるとこんなところか。

だが、今、浅草には映画館は一軒もない。

かろうじて残っているのは数軒のホール。
落語定席の浅草演芸ホール、旧フランス座の東洋劇場。
あるいは、大衆演劇などの木馬亭。さらにストリップの
ロック座など。まあこんなところ。

ここ数年は、海外からの観光客の増加で、街はにぎわっている
ようには見える。

だが、数年前までは、夜7時には人がいなくなり、店も
シャッターをおろし、薄暗い街になっていた。

栄えていた頃は、不夜城などともいわれていた浅草六区
だったのに、で、ある。

私が浅草に引越して、15年ほどである。

子供の頃、親に連れられて浅草に来たのは、一度だけ。
確かほうずき市だったと思うが、私鉄沿線の郊外に
住んでいた小学生には東京の盛り場は怖い街、という
印象が残っているくらい。

戦後、戦前、大正、明治にしても、その盛況ぶりは
文字や写真では読んで知っているが、実体験としてはもちろん、
浅草オペラにしても、軽演劇にしても、動画として
まったく観たことがない。実際にどんなものであったのかは、
知らない。

動画は、探せばあるのであろうか。
一部、エノケン、ロッパなどは、映画にも出演してものが
あるので、彼らが動いているものは観たことはある。
しかし、それもやはり、実際の舞台とは違うものであろう。

なにか方法がないのか。これは私の宿題。

そして、今回の発見は“浅草芸人”。

先にも書いた、北野武氏などが語っているものである。
戦後であろう。

たけし氏などと一緒に語られるのは、フランス座

フランス座は、浅草演芸ホールのビルの2階。
今は、色物の演芸場東洋館。漫才協会の本拠、定席である。
ちなみに、今、1月中席の番組はこんな感じである。

その前は、フランス座という名の、ストリップ劇場。
たけし氏は、このこエレベーターボーイを
ふり出しに、育った、と語られている。

その他、浅草芸人といって思い出すのは、コント55号
萩本欽一氏、坂上二郎氏。アズマックスの父、東八郎氏。
伊藤四朗氏などもそうか。あるいは、寅さんの渥美清氏も
浅草で育っていたはず、、あとは、、意外にちゃんとした
知識を持っていないのである。
一番近い時期の浅草六区のことだが、ほぼ知らない。

今回調べて、わかったのが、浅草松竹演芸場という存在である。

戦後の浅草芸人の出演るところといえば、ほぼここと
フランス座東洋館しかなかったといってよいようなのである。

規模からしても、松竹演芸場の方がメインであろう。
これ、私は知らなかった。
一般にもあまり知られていないのではなかろうか。

ウィキペディアにページがあった。

開場は昭和19年の戦中。

主な出演者が上記のウィキペディアにあった。
これはおそらく戦後のものだと思う。

見てみると、私たちが子供の頃、昭和40年代、50年代、
テレビのお笑い番組に出演ていた落語家ではない色物、
漫才、コントその他の芸人のほとんどがここに出演ていた
といってよいのではなかろうか。

「レッドスネークカモン」の東京コミックショウ、いわずと知れた
コント55号、談志家元も出演ていた。ケーシー高峰、関武志と
指パッチンのポール牧のラッキーセブン。青空球児・好児
昭和のいる・こいる、「わかるかな~、わかんねえだろうなぁ」の
松鶴家千とせ、地下鉄漫才の春日三球・照代、「ナポレオンの帽子」
なんという帽子芸を覚えているが早野凡平、「田園調布に家が建つ」の
星セント・ルイス、そして、ツービートも。(敬称略)

浅草松竹演芸場が閉じたのは昭和58年(1987年)。
当時漫才ブームなどもあってか、赤字ではなかったという。

松竹が閉めた理由はよくわからない。
この時期、浅草六区の映画館はどんどん閉館しており、
松竹の浅草撤退、あるいは、東京の演芸からの撤退、
そんなことだったのかもしれない。

浅草六区地図・昭和50年当時の建物を記入

浅草松竹演芸場のあったのは、今のROXのメインビルの一部。
この区画は昭和50年には、松竹浅草演芸場以外に、浅草松竹(映画館)、
国際通り側に丸石家具センターがというのあったよう。
これらが再開発され、昭和61年(1986年)今のROX
TOC経営)になった。

浅草松竹演芸場の戦後、元は「デン助劇団」の軽演劇が
番組のトリで、これは昭和48年まで続いていた。
戦前からのエノケン・ロッパの軽演劇の流れをくんでいると
いってよいのか。
デン助は、大宮敏充(おおみやとしみつ)氏。
名前くらいは聞いたことがあるか。デン助の写真を見ると、
たけし氏が、演る、口のまわりを黒く塗って「じょーだんじゃ、
ねーよ!」のおじさんに似ているキャラクター。
(あれは、たけし氏の物真似、オマージュであったのか?。)
私はほぼ知らない。

もはや神話のように感じられる浅草芸人。
戦後の浅草芸人の根城、浅草松竹演芸場
なんとか明らかにしたくなってきた。

 

 


※資料「浅草六区台東区文化財調査報告書第五集
台東区教育委員会