浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



断腸亭落語案内 その35 桂文楽 よかちょろ~心眼

f:id:dancyotei:20190521083754g:plain

さて。文楽師「よかちょろ」なのだが
もう一つ、せっかくなので若旦那について、ちょっと考えてみたい。

書いたように、落語の主要登場キャラクターの一つである。

ただ、若旦那でもよく見ると色々いる。

例えば「酢豆腐」の若旦那。
これはキザで嫌味な奴として描かれる。
これも文楽師は演った。

また、文楽師の十八番(おはこ)だが「明烏」の若旦那は
うぶで真面目なキャラクター。

同じく、文楽師の十八番の「船徳」は勘当になって船宿に
転がり込んでいる。あまり性格は深くは描かれていないが、
今回の「よかちょろ」に近い、調子はよいが嫌味のないタイプか。
(そう、文楽師の人物表現にはほぼ嫌味がないのである。これは
師の大きな特徴であろう。)

やはり、文楽師、幇間(たいこもち)と並んで
若旦那ものも多い。

前に書いた円生師の「松葉屋瀬川」。
http://www.dancyotei.com/2019/may/rakugo6.html

真面目で勉強家で、ちょっと設定が「明烏」の若旦那にも近いが、
放蕩後、後半は人が練れて、今回の「よかちょろ」の若旦那にも
近くなる。

若旦那も吟味をすると、性格は色々あるが、まあ共通するのは、
あたり前だが、大店の跡取りで、お金があるということ。

そして、多くは放蕩、道楽者。
放蕩、道楽者、多くはお金のある若旦那がティピカルな
キャラクターとして出てくるのは江戸・東京落語の特徴であろう。

書いているように全員が嫌な奴では必ずしもなく、ある程度肯定的と
いってもよい描かれ方をされている。「よかちょろ」「松葉屋瀬川」
などである。
放蕩自体はよいことではないが、それによって世間を知り、
人間が練られる、という評価。

これは「江戸っ子」論のようなことにもなってくる。

前にも書いているが、江戸ではまず「通(つう)」という人々
というのか、コンセプトができた。
天明期、田沼時代といってよい頃。17世紀後半。
江戸落語が生まれる前夜である。

大店、といっても、蔵前の札差など一握りの最上層町人。
吉原で派手に遊び、また歌舞伎の大贔屓筋となったり。
須田先生は「通人文化」(「三遊亭円朝と民衆世界」)などという
言葉を使ったが、有り余る金を振りまき派手に振舞う。

このあたりがまず江戸文化のベースといってよいだろう。
落語の若旦那のキャラクターもここが起源であろう。
町人が派手に振舞う「通人文化」は寛政の改革などで弾圧されるが、
このあと、文化・文政期に「粋」というコンセプトに変化する。

「粋」はケチ、吝嗇(りんしょく)、しみったれを嫌う。
派手に金を使うことをよしとする風潮は変形しながら引き継がれて
いったといってよいだろう。
もちろん「粋」はただ自らを派手に見せるために金を使う、
のではなく、ケチではなく、出すときには出す。特に人に振舞う
ことに軸足がある。

江戸期から明治の寄席のお客の多くは、裏長屋に住む職人層で
あったと考えてよいのであろうが、若旦那や商家の噺も落語には
少なくない。商家の旦那も若旦那も手代も小僧も裏長屋の職人
とは特段対立する関係ではなく、同じように寄席のお客であった
のであろう。
特に、文楽師の立ち位置は、八っつぁん熊さんなどの裏長屋の職人
よりもこちらにあったように思われる。

今の下町の祭りなどを見てもこれはわかる。
私の住む元浅草、鳥越祭でも、おそらく隣の三社祭でも、職人の
家も、会社を経営している家、昔でいう大店も共に祭に参加するし
町会の役員も同じように勤め、共に盛り上げることが普通である。

ともあれ。
これが、江戸・東京の下町の文化で、それが落語に反映し、
若旦那というキャラクターとして生きてきた、ということが
できるように思われる。

江戸・東京落語は単なるお笑い、演芸に留まらない、江戸・東京
下町の人々の生活、信条、文化を担い、継承してきたものであると
いうことは、改めて書き留めておかなければいけないことである。

さて。
文楽師、「鰻の幇間」「よかちょと」とみてきた。

次。
「心眼」をいってみよう。

文楽師にしては珍しい、そこそこの長編。
いや、実際には全編で20分ちょいで、長編ではなく、話しとしては
むしろ短い。滑稽な一席ものというのではなく、ドラマ性が高い
といった方が正しい。

盲人の噺である。
同じ盲人の噺である「景清(かげきよ)」も文楽師は演っており
こちらの方が有名であろうが、あまり知られていないであろう
「心眼」の方が私は好きである。書いてみよう。

円朝作。円丸という盲人の音曲を演る弟子の実話から作ったと、
枕で説明をしてやはりすぐに噺を始める。

盲人で按摩(あんま)をしている梅喜(ばいき)が主人公。

東京が不景気で横浜へ按摩の出稼ぎに行っていたが、横浜も
不景気で稼ぎにならず、歩いて東京浅草、馬道の自宅まで
帰ってくる。既に鉄道が通っている時代設定。

~~~~
前に触れたが、明治10年代、松方デフレの頃と思われる。
~~~~

帰ってくると、内儀さん(かみさん=名はお竹)の前で泣き出す。
横浜には弟と行っていたのだが、稼げずに弟と喧嘩になった。
「ドメクラ、食い潰しに来やがった。」と。
あの弟は俺が育てたのだ、あれはその兄にいう言葉では
ない。悔しい。
なんとか、この目が開かないか。
信心をしよう。茅場町のお薬師様、と考えながら、横浜から
歩いてきたという。

~~~~
茅場町のお薬師様というのは、東証の近所に今もある、
智泉院というお寺。以前は眼病のご利益があると願掛けをする人が
絶えなかった。
~~~~

梅喜は、眠りに着く。

翌朝から杖にすがって、浅草馬道の宅を出て
茅場町の薬師様へ、三、七、二十一日の日参(にっさん)。

ちょうど満願の当日。

 

つづく